唐突ですが皆さんは努力というものをしていらっしゃるでしょうか?
わたくしはここ何年もしていません。充分なお金を持っている、とか、それなりの地位を築いていて、今更必要がない、というのならば、喜ばしい限りです。しかしながら、全く、皆さんが想像されるかもしれない以上に、(繰返しますが)全く、そのようなことがないのにもかかわらず、していない。のみならず、する気にもなれない、このままでは近い将来、かなり、困ったことになるかもしれないのに、やらない、やる気がしない。
考えることだけはやる気になるので、一体こいつは(わたくしのことです)何故、努力というものをしないのか?ということを考えてみたいと思います。(一応、一般化するつもりです。つまらん話を読んで損した、とはならないように)
さて、表題は「努力と苦労」です。まずはこの似ているようで大きく違う、二つの言葉から考えてみます。
「努力」というのは、何かを向上させるために、そのための手段、方法を“自分で”考えてやることだと思います。“何か ”といっても、色々あります。サッカーの技術、志望校に受かるための学力、営業目標、好きな異性を振り向かせる、など。
最も努力らしい努力としては、有名なものがあります。プロ野球の野村克也さんが現役時代の話ですが、各地の繁華街の女性のいる飲み屋にいってはライバル球団の選手が常連客にいないかを聞き出して、もしもいようものならその係の女性を指名して通いつめ、手当たり次第情報を集めたそうです。また、元タレントの島田紳助さんが芸人になりたての頃、仲間の舞台全てを録音して、さらにそれを全部文字におこし、ネタを分析し、またウケているところを探って、今後はどういう漫才が流行るかを考え抜いたというこれも有名な話があります。
“自分で”目標を決めて“自分で”それを達成する方法を考え、“自分で”それを実行する。これが努力というものではないでしょうか。
一流になるのは、なるだけの理由があるということです。
対して、「苦労」というのは、否応なしにやらされる、やらなくてはいけなくなることではないでしょうか。つまり、“自分で”考えてではなく、“他人に”やらされることです。
努力を怠ると、後に苦労することになることが多々あります。(親の介護など、努力だけでは避けられない苦労というものもありますが)
(この辺りから少し、読んで損しない話になってくるはずです)ところで、努力にもさらに、二種類あると思います。
努力をしたあとの報酬、成果を目当てにするものと、努力をしないと何らかの罰を受けてしまうので、それを避けるためにするものです。
わたくしは常々、頂点にたった人たちが金銭的にも地位の面でも、もう充分のものを得たのに、まだ努力をし続けるのが不思議なのですが、新しい成果を出したときの喜び、快感が欲しいから、それが忘れられないから、ということであれば、なんとなくはわかります。(自分には経験がないのできちんとは理解できませんが)
それに対して、自分が人生の中で、努力という名に価しなくもないことをしたときのことを考えると、そのような、「達成した後の快楽」を目当てにしたのではなく、「達成できなかったら受けるであろう苦しみ」を受けないためにしていたのだと思います。
学校での勉強はその典型です。総じて中学生までは成績は良かったのですが(多いですよね、中学まで秀才タイプ―わたくしは秀才というまでではなかったですが―)これは一重に、授業についていけないという恐怖、周りの“あいつ(うちの子)は頭いいらしいよ”という雰囲気を裏切ることが怖くて最低限の勉強をしたからに過ぎません。
だから皆さん、環境が大事だというのでしょう。周りに置いていかれる恐怖を感じるには、周りが優秀でないといけませんから。
この、後の方の努力は、やらされている部分があるところで、苦労に近いかもしれません。
ところで、この二つの努力にも共通するものがあります。共に、自分一人では、つまり他人がいなければ、意味がないことです。「自分が到達した成果を味わう」といっても、それを賞賛してくれる人がいなければ虚しいでしょうし、「周りに置いていかれる恐怖」は初めから他人と比べています。
「賞賛されたいための努力」と「周りに置いていかれる恐怖を逃れるための努力」では後者の力の方が強いように思います。これは、ある共同体の階層の上に登りたい欲望と、共同体にいられなくなるのではないかという恐怖では、いられなくなる恐怖の力が強い、と考えれば納得できる答えです。(いいそこねてますが、両者は完全に分かれているわけではなく、割合の話になると思います)
だから、そうですね、もしお子さんがいらっしゃるなど、子供の教育、成長にかかわっておられる方であれば、何かを達成させて、達成することに対する純粋な喜びを味わわせてあげれば、努力をいとわない人間になれるかもしれないです。ありきたりの結論で申し訳ないですが。
少し思うことがあるのですが、もしもですよ、もしも仮に、自分がそうですね、高校一年生位のイチローさんの体になったとします。そのまま、イチローさんやってきたトレーニングを続ければ、《イチロー》になれるとします。その代わりに勿論、イチローさんのやってきた、地味で辛い練習をほぼ、1日も 欠かさずにやらなければいけないわけです。
将来のトップ・メジャーリーガーが約束されていても、わたくしには出来ないでしょうね。
「なんたってイチローなんだからそこそこの練習で日本プロ野球のレギュラーにはなれるだろう。それで充分だろう」
くらいは思っちゃいそうです。そんな人間が仮にイチローの体を持っていたとしても、 プロ野球でやっていけるかといえば、プロに入ることすらできないで終わりそうです。