(国家独占資本主義にせよ、ケインズ主義的国家政策にせよ、)負債金融型の総有効需要を創出した点では同じだ。だが、この路線は永遠には続かない。やがて「債務という反価値」の力が強まり、未来にわたる価値生産のあり方が固定させられるか、債務危機が発生するからだ。
いきなりで恐縮です。これはたまたま新聞で目についた文章です。(こういう引用って著作権、大丈夫ですよね?)これはおそらく、「(国も)借金して商売してたら首が廻らなくなることがあるよ」といっているだけです。(「未来にわたる価値生産のあり方が固定」ってのがいま一つわからないのですが、商売上の新しい試みがしにくくなるってことでしょうか?)
何故こんな文章から初めたかといいますと、いまだに、こういったものが咎められずにまかり通っていることをあらためて示したかったからです。いや、専門家の間でやるのは構いません。数学でいう数式と似ているところがあるでしょうから。(確かに、短い文章の中で多くの情報を伝えることのできる書き方です)でも、一般に出す本の、しかも、これって実は書評なんです。私たちのなかに、こういう、わざわざ難しく書いたようなものを有り難がる気持ちがある限り、この風潮は続くのでしょう。
《やはりこれは漢文からきているのでしょうか。漢文のほうが和文より格が上だという時代は長かったでしょうから。しかし、その当時と決定的に違うのは、当時は使う言葉は、いくら沢山あろうが、ほぼ、決まっていただろうということです。今は学者さん達、勝手に言葉をつくっちゃいますから。(新しい概念がでてきたらしかたないですが)でも、一番は多分、単純に文章力なのでしょうね》
さて、星新一さんです。読みやすい文章で知られています。それは素晴らしことなのに、そのせいで軽く見られてしまっています。内容が軽いから文章も軽くて読みやすいのではありません。星さんの才能と努力で読みやすいのです。仮にぼくが、一度彼のショートショートを読み、記憶だけでそれを再現したとしても、とても同じレベルの文章にはならないでしょう。
《関係ないですが、もし、事務的な用件だけを伝えたいのなら、箇条書きに限ります。無理して文章にするとわかりにくくなります》
文学性が問われることもよくありますが、星さんの一番有名な作品は多分、「ボッコちゃん」でしょう。(この作品の良さがぼくにはわかりませんが)あんなに短く、筋立てもはっきりしている作品なのに解釈(いわいる作家の意図の詮索など)が分かれて、しかも人気があるって、文学性が高い証拠だと思いますけど。
誉めている文章でよくあるのが、「先見性があった」「いまのテクノロジーを予言している」というのがあって、それはその通りなのでしょうが、生意気いいますけど、それを一番に持ってきてはいけないのですよ。だって、今はあまり価値のないことでしょう。予言は実現しているのですから。そうではなくで、今日、新作として発表されたとしても充分に評価できる作品が沢山あるのです。
いまだにたまに思い出しては考えこんでしまうのが、「白い服の男」です。これは、太平洋戦争を反省し、二度と戦争をしないために、戦争に関するものを全て禁止した社会を描いたものです。「戦争」という言葉そのものを使うことさえ禁止されていて、話は非合法に「戦争ごっこ」をしていた少年たちを逮捕して厳罰にする(かなりの罰だったはずです、死刑だったかもしれません)ものが、主な描写でした。その捜査を専門に担当している、超法規的な権力を持つ者の制服が真っ白であって、だから「白い服の男」なのです。
《ノーベル賞作家である、カズオ・イシグロの「忘れられた巨人」が同じテーマのようです。こちらは、アーサー王が亡くなり、統治が少し緩んできた時代を舞台にした、ファンタジーの部分もある小説です。当時、ブリトン人とサクソン人が過去の因縁もあり、激しく争っていたのですが、記憶をなくす謎の霧のおかげで因縁を忘れ、争いがなくなっていました。別に、昔、奥さんが浮気をして、仲違いしていた老夫婦もでてくるのですが、これも、霧のおかげでその記憶がないために、仲良く暮らしていました。その霧は巨大な竜が出していることがわかったのですが、その竜を退治して、真実と向き合うべきか、このままの平和を保つべきかという話らしいです。(読んではいるのですが、まだ途中なもので)》
星さんのものは今もずっと少年少女の間でのロングセラーは続いているのでしょうが、そのように、少年少女小説と一般の小説の橋渡しのような読まれ方だけしているのはいかにも惜しい、いつ大きく再ブレイクしてもおかしくない作家です。
ところで、星さんには、星さんとしては異色といわれている作品が二系統、あります。実は彼の父は一代で大製薬会社を築いた実業家らしく、その父とさらに祖父を描いた伝記小説が三冊と、あとは若干の歴史小説です。
そのうち、ぼくが読んだのは初めて書かれた歴史小説「殿さまの日」です。現在の官僚主義を批判するときに、先例にとらわれる、とか、些末主義などということがいわれますが、江戸時代なんていうのは、低成長で、変化の少ない、まさに先例や細かいことにとらわれやすい社会であるのに、武家社会のしかもその頂点のお殿様などというのは、それの凝縮されたものです。そうなると、殿様が自分の意見は勿論、例えば食事に対してちょっとした感想を言っただけでも担当者がその対応でてんやわんや、下手をしたら腹でも切りかねないような具合のものであって、だからいわいるバカ殿というのは、そうならないよう、平穏な日常が続くように、わざと素知らぬ顔をしていたのであろう、という解釈で書かれた、おそらく、日本で最初の時代小説です。さすがの斬新かつ、洞察力にとんだ解釈でしょう。
最相葉月さんの書いた評伝によると、これは、自らの文壇における評価の低さに不満をもった作家が、直木賞を狙って書いたものだということですが、残念ながら思惑どうりにはいきませんでした。(今、調べたら候補にすらなっていませんでした)
最後は少し陰惨な話になります。
晩年、よく文壇のパーティーに現れたらしいです。もう過去の人になっていて、招待もされていないのに。
往年の大功労者ですから追い返されるようなことはなかったのですが、昔の知り合いと少し話すくらいで、あとはじっと黙って立っていて、周りを気まずくさせていたということです。その意図はわかりませんが、最相さんは「今ちやほやされていても、いずれはこうなるのだ」ということを現役の作家たちに見せつけていたのではないか、と推測されていましたが、同時にそれが正しいかどうかはわからない、ともいっています。
また、若い頃のSF作家グループの一員であり、世話もして、小説のアイディアまで惜しげもなくあげていたらしい後輩の筒井康隆にも、さんざん、かなりひどいことをいって、とうとう激怒されて絶交までされたという話もあるそうです。
これもどう考えていいものか全くわかりませんが、本人の心象はかなり荒廃していたことだけはわかります。凄いのは、それを表に出すことです。別に惚けてきたからではないようです。平凡な人間であれば自らの崩壊を隠そうとするでしょうが、そうしなかったのも、その振れ幅も非凡の証明だということだけはいえます。
今回は独自の考えみたいなものは全くない記事ですが、星新一のことは一度書いてみたかったのでした。