四十年位前までは町には空き地というものがあり、子供が遊ぶことができました。今は空き地はほとんどありませんし、たとえあっても有刺鉄線などで囲われて入れないようになってしまっています。
空き地では子供たちは子供たちだけで遊んでいました。例えば野球をすることもありました。今、子供が町中で野球をしたいと思ったら少年野球チームにでも入らないかぎり場所が確保できないのではないでしょうか。学校で大人に管理され、本来、遊びであるはずの野球やサッカーでも大人に管理されざるを得ません。野球は上手くなるかもしれませんが、他に子供たちだけでその共同作業の中から学ばなければならないことが沢山あるはずです。
野球やサッカーは広い土地と、プレーする人数も多くいりますので今は現実的に子供だけで日常的に遊ぶのは無理なのでしょう。しかし、比較的狭い土地と少ない人数でやることのできる、例えばバスケットボール、または個人競技であり、まだ練習場所も見つけやすいだろうスケートボードやダンスにはまだ自由がありそうです。そちらのほうが正常な姿だと思ってしまうのはただの偏見なのでしょうか。
本来はきちんとデータを、例えば子供の頃から管理されたスポーツをしてきた人達とストリートスポーツをしてきた人達がそれぞれどういう生涯を送ったか。その収入、社会的地位、既婚、未婚、さらには子供の数、本人の幸福度などを検証しなければただの無責任な放言になってしまいます。
また、野球にしろサッカーにしろ、プロになった人達の多くは少年チームに入っていてそうです。
さらに言えば、スポーツではありませんが、クラシック音楽の演奏家や歌舞伎や能などの伝統芸能を担う人達は無理にでも小さい頃から訓練しないと大成できないといいます。
しかし、しかしです、少年野球の子供が帽子をとって、直立不動で、監督らしき人から怒られ、しょげている姿を見ると腹が立ってきてしまうのです。
一人で無意味に歯噛みしていても仕方がないので検証してみることにします。
まず、空き地問題ですが、社会に遊びがなくなって昔なら空き地になっているような場所もとりあえず駐車場になったりだとかなんらかの用途で利用されているようです。所有者が積極的にする気がなくても各種セールスがかかるのでしょう。“呑気”というようなものが許されない社会になっています。なにしろ音楽教室で演奏する曲からも著作権料をとろうという位ですから。そのうち、鼻歌からもとろうとするのではないでしょうか、いや、決して冗談ではなく、技術的に可能になったらやりますよ、彼らは。
また、空き地を放置しておくと浮浪者が住み着くとか、勝手にゴミが捨てられるなど、面倒な問題が起きやすいのでしょう。
《空き地には勝手にゴミを捨てる人間も、舗装された駐車場には、たとえ不便な場所にあってほとんど車がなくても捨てない。感覚はわかりますが、面白い現象でもあります》
しかし、今後人の数が減り、土地が余ってくるようなことになってきたらこれは変わってくるかもしれません。空き家問題が出てきている位ですので。治安や社会秩序、経済の面からみたら良くない傾向でしょうが、子供にとっては冒険の機会がふえるわけで、朗報でしょう。
少子化で子供が大事にされる、という社会傾向もあります。いわく、子供がやりたいことはやらせたい。可能性を伸ばしてやりたい。それが親の務めだ。
親同士の見栄や意地の張りあいといったこともあるのでしょう。誉めるようなことではありませんが、それも人情というものです。
書いているうちにやはり、ただの偏見のような気がしてきました。皆、与えられた条件のなかで一所懸命にやっているのですから、とやかくいうのは余計なお世話というものでしょう。
仕方がないので強引に広場つながりということで、古代ギリシャの哲学者であったディオゲネスとアレキサンダー大王の逸話でしめます。かなり有名な 話なので、ご存知の方は飛ばして下さい。
ディオゲネスはたいへんに質素な生活をしていて、酒樽のなかで暮らしていたという話もあるくらいです。それでも哲学者としては大変に高名であり、アレキサンダー大王が征服者としてギリシャに乗り込んだときにわざわざ会いにいったそうです。そうして、何か望みのものがないか?と尋ねると、「そこに立たれていると日陰になってしまうのでどいてくれないか」と答えたそうです。
大王も怒ることもなく、帰る道中で、自分がアレキサンダーでなかったら(その責任がなかったら)ディオゲネスになりたかった。と述懐したそうです。