年賀状を虚礼というかたがおられると思いますが、失礼ながら、これは、二重に間違っているといわざるを得ません。
まず一つ目の間違いですが、年賀状のことを虚礼といわれる方々は、ただ、年賀状を書くのが面倒なだけだ、ということです。虚礼云々というのは、自分が書かない言い訳でしかないのです。
だから仮に同じ人が何かがあって、急に筆まめになり、年賀状を書くのが大好きになったとしたら今度は年賀状を書くべき理由を考えだすでしょう。
《これは、結構知能の高い人がやりがちなことです。誉めていません。知能は高いけれども自己反省をしない人達です。彼らは色々なことを実によく知っています。そして、それを周りに披露します。彼らのいうことをよく聴いて、よく考えてみて下さい。その知識は純粋な知的好奇心にしたがった結果知り得たものではなく、他人より優位に立ちたい、自己をひとかどの者にみせたいという欲求の結果、得たものだということを気付くでしょう。
見抜くポイントは二つあります。一つはただの知識にとどまらず、その人独自の洞察、解釈があるかどうか。二つ目はもっと簡単で話が面白いかどうかです。
知的好奇心に引きずられて何かを知って、それについて考え、それを人に話す時には、おのずから熱が入り、それは人を惹き付ける、言い換えれば聴いていて面白いものです。
ただ、一つ彼らの為にいっておかなければいけないことがありますが、そういう知識ひけらかし人間は大概、相当な善人であるようです。おそらく、根本的な自信がないからでしょう。だから知識を盾にするし、自信のない自分を周りに認めてもらうために他人に奉仕するのです。そういう傾向を好ましく思えて、かつ、つまらなく、偉そうな話がそれほど苦にならなければ友達としてはいいタイプの人達だと思います》
こういう場合に困るのは、本人も自分が考えだしたその理由の故に年賀状を書く、または書かないのだと思い込むことです。(思い込む為にわざわざ理屈を考えるわけですけれども)自分で仕掛けた嘘の理屈に自分ではまるわけです。
同じようなことは他に食べ物に関することでも見聞きします。よく、“その食べ方は邪道だ”ということをいわれる人がおられます。お好み焼きにマヨネーズをかけるのは邪道だ、とか。
別段、好き嫌いの話であれば全く問題はないのですが、困ったことにそれに理屈をつける人が多いのです。いわく、全てがマヨネーズの味になるだろう、とか。
そういう人達の話をよく聞くとわかるのですが、結局、自分の慣れ親しんだ食べ方ではないものを否定したいだけです。それはそのはずで、もしも、初めて食べたお好み焼きにマヨネーズがかかっていたらそういうものだと思っておいしく食べるでしょう。(ごくまれに、初めて食べたときに“これではお好み焼き本来の味がわからないだろう”と思う人がいるかもしれません。そういう人は本物なのでこの話には当てはまりません)また、今までマヨネーズをかけて食べていたのに、いや、これは邪道なのではないか?と思ってやめる人は、ほぼ、周りのろくでもない影響を受けただけです。
話をもどしますが、年賀状を虚礼といってはいけない二つ目の理由は、大昔にはそもそもは年月の節目などというものは無かった、ということにあります。
何もないところに、私たちのご先祖様方はわざわざ様々な節目や行事をつくりだしてきたわけです。当然のことながら、そこには意味があるわけです。私たちの朝墓な知恵や知識では理解できないからといって、それをないがしろにしてしまっては、長年かけてつくりあげてきた 私たちに利益をもたらす良き習慣を捨て去ってしまうことになってしまいます。
私たちが子供を教育するときに、子供のいやがったり、理解できなかったりすることを、後々わかるだろうし、何よりも、大切なことなので強制することがあります。それと同じ理屈だと思っていただいていいと思います。
言い添えなければいけないかもしれませんが、別段、メールなどでの新年の挨拶を否定しているわけではありません。そのあたりは時代というものかもしれません。(現代に、紋付き袴で新年の挨拶に来られても対応に困ってしまいます)