時事その他についての考察

人が芸術至上主義を信条として選ぶのはそれが楽だから

※ここでいう芸術至上主義は、実際のことばの意味とは少し違うかもしれない。ここでは、芸術に限らず、作品やその人の為した成果と、その人の人格や行動、思想、発言は区別するべきだ、という意味で言っています※

立派な業績を残したからといって、偉大な芸術作品をつくったからといって、それを為した、またはつくった人が立派な人であるとは限らない。周りの人たちに大きな害を及ぼした人かもしれない。

これは、単純な事実として言うが、だからといって、その業績や作品そのものは変わらない。偉大だと想われていたピアニストが実は人間の屑だったことがわかっても、その人の残したレコードのピアノが突然調子外れになるわけではない。変わらないということは、同時にその価値も変わらない。

しかし、世の中の人全てがそのように割り切れるわけではない。

愛聴していた音楽家が、実は節目節目で女性を悪どいやり方で利用することによって、己の野心を満たしていたことを知った時、これまでと変わらず愛聴し続ける人と、以前と同じ気持ちでは聴けなくなる人に分かれるだろう。

唐突だが、仕事などを効率よくこなせる人と、段取りが悪く、なかなか仕事が終わらない人がいる。

効率よくこなせる、というのは、考え方を変えて見ると、楽なやり方を見つけている、と言える。

そうして、そういうやり方を身に付けている一人にとっては、段取りよ悪い人の仕事振りは馬鹿馬鹿しく思われるだろう。

実は、芸術至上主義という考え方というのは(くり返すが、ここで芸術至上主義とは作品と作者を分けて考えることを指す)仕事を効率良くこなすことと同じものと考えることができる。

だって、ある芸術作品に感動したとして、その後に作者が実はろくでもない人間であったと知ったとして、その後には作品に感動したことも改めなくてはならないとしたら、面倒ではないか。

それよりも、作品と作者は別個として考える、としたほうが余計なことを排除できて、楽なのだ。

だから、仕事を効率よくこなせる人が、そうできない人を軽く見がちなように、一度芸術至上主義を選んだ人にとっては、そうではない人は、やはり考え方のレベルが低いように思ってしまう。

しかし、効率の悪い仕事をしている人の多くは、労力を厭わずに黙々と働いている。(対して、段取りのいい人は得てして手を抜きがちだ)

だから、それはそれで立派なことだと言えるだろう。 

同じように、作品と作者を分けて考えることができない人というのは、事あるごとに様々なことを考える。

場合によっては、本気で怒ったりすることもある。(大抵の場合、自分に関係ないことであるのに)

そのエネルギー、労力を厭わない行為は、ある意味では称賛されるべきものなのかもしれない。

※ところで、何でこんな事を言っているのかというと、山下達郎氏がジャニー喜多川に関して語っていることを見て作品と作者を分けて考えるということは、結局どういうことなのだろう、と考え始めたからです※