※そんなことを始めた理由としては、いわいる“いじめ”問題の解決のため、ということらしい。これが問題の解決に繋がるのかは多くの人たちが見解を述べられており、特に付け加えることは感じられない。ここで言いたいのは、真面目そうな主張の裏に隠れた本当の動機についてである。
この出来事の本質は表面だけを見てもわからない。
突飛なことを言うようだが、世界が分断化していること、各国が右傾化している現象と合わせて考えなくてはならない。
普通に暮らしていれば、日本の右傾化には気付き難いのかもしれない。
右傾化を騒ぐ人たちがいても、一部の社会主義的な人たちがまた懲りずに騒いでいるだけように思ってしまうかもしれない。
しかし、目を国内だけではなく、中国を含むアジア全体、さらにはロシア、ヨーロッパを見据えたユーラシア大陸、海を隔ててアメリカまで考え合わせると、そもそも右傾化は避けられない現象とさえ解釈できる。
世界がまたしても争いへと向かっている時、警戒のために国の力を結集しようとするのは普通にあることだ。
現在言われている右傾化の本質はそういうことだと思う。
小学校において、児童の間での呼びかけで、呼び捨てやあだ名を禁止して、「~さん」呼びに統一する、というのは、いじめ問題だけが理由ではなく、おそらく、優しい心持ちを育てようとする、という善意の教育理念から始まったことなのだろう。
それは、一般社会で、ハラスメントを厳しく監視する傾向とも連動しているのだろう。
しかし、呼び名さえ管理するということは、管理者の権力がそこまで及ぶ、ということである。
そこまで管理者の権威、権力を浸透させるということは、これを悪用すれば例えば何らかの思想への誘導、より直接的には何からの運動への動員へと誘導することにもつながり易くなるということでもある。
つまり、現在、教育の現場において、右傾化に向けての布石が着々と打たれているのだろうと推察できるのである。
現在の非ハラスメント運動とでもいえる傾向は、もはや中世ヨーロッパの魔女狩りにも似た様相になっている。
《信じがたいのだが、何がハラスメントにあたるのか、という疑問に対して“ハラスメントを受けた者がハラスメントと感じたら、それはハラスメントだ”などという客観的な判断そのものを否定する言説が普通に唱えられてるようにすらなってしまっている》
たとえ、それが善意から発したものであったとしても、他人を圧する精神というものは危険なものだ。
よもや忘れてはいなだろう。先の大戦において隣組と言われた組織、少し前までは仲の良かった隣人たちが“国家のため”ひいては“我々国民のため”という大義名分で、一方的な価値観を強制して、何の非もない人たちを迫害した歴史を。
多様性というのは、前提として自由であることが必要な現象だ。また、これが侵されるということは、自由が制限されていることの目安になる。
学校において、呼び名が制限されるということはその多様性、自由が制限されることに他ならない。
これはただ呼び名だけの問題ではないのだ。
多様性は、通常、考えられているような、人権や善悪だけの問題ではない。人間、さらに言えば生物が生き残っていく上で必要、おそらくは不可欠の要素であるはずのものだ。
例を挙げれば、生物が雄雌に別れたことそのものも変化する環境に対応するための適応であったはずだ。
国家における専制主義、権力の集中というものは、そういう大原則に反したものだと言えよう。
《ここまで書いてきて、気付かないわけにはいかないのだが、多様な政治形態、それには勿論、専制国家も含まれるわけだが、それが存在することも、多様性の一環であるだろう。そうだとすると、世界に民主国家だけではなく、専制国家や強権主義国家が存在することも多様性を保証する大切なことだということになる。
そうだとすると、専制国家や強権主義国家も多様性の一環なのだとすると、日本は残念ながら民主国家の側ではなく、専制国家のグループに入るだろうと言わざるを得ない。
何をもってそう思うのか。
極く最近の例がある。
マスク着用の新しいルールが必要となっているのではないかと言われている。今までのルールは緩められるべきだろうというのは多くの人たちに共通した考えだろう。しかし、その新しいルールを政府が発信すべきだという人たちがいる。
この人たちは、それを社会の安定のために必要だからということから言っているのではない。ただただ、自分が、ひと気の少ない屋外ではマスクを外したいのだが、他人の目が気になるので外せないから、という理由からそう言っているらしいのだ。
マスクを外してもいい状況もあると考えて、社会もある適度はそれを許すだろうと思うのならば、率先して行動すればいい。
それをせずに政府の指示を待つということは、自分の行動の決定権を自ら放棄しているということだ。
自ら進んで奴隷の身分を望んでいると宣言しているということだ。
そうして、そういう人たちはそれほど少数派ではないようなのだ。テレビでそういう意見が言われても反発する意見が見受けられないのだ。
これを素直に解釈すれば、中々に哀しくも情けない結論が導きだされるだろう。
私はそれをしるす気には今はなれない。