COP26が行われている。相変わらず国際会議での日本の指導者の言動は、母親や先生の不興を買わないように、常にその顔色を窺っている子供のように見える。
新しい基準ができる時、初めにそれを提唱したり、積極的にアイディアを出したり、議論を主導したりする姿を見たことがない。
そもそも、“世界”という言葉が安易に使われていることがその姿勢を表している。
彼らの言うことをきいていると、まるで日本はその“世界”には含まれていないかのようだ。
さらに大きな問題がある。国際的な活動で指導的な役割を担っている日本人は、数は少なくともこれまでいたし、今もいるはずである。具体例を知っているわけではないが、さすがにいないわけはない。
先程、国際的に主導的な役割を担った日本人を知らないと言った。これも私の勉強不足で実際はいたことがあるのかもしれない。
しかし、そういう人たちの活動はあまり知られることがない。我々に興味がないからである。
何に興味がないのか?国際的な問題、それを解決するための活動に興味がないのだ。我々日本人に関心がはあるのは日本国内のことだけなのだ。それ以外のことはやらざるを得ない時だけ、嫌々やるだけだ。
最近は、仕組みが出来上がっていることでは日本人も中々活躍しているようではある。
国際連合などではしっかりとした仕事をされている方々もおられるのだと思う。
しかしそういう、「外国人と、外国の組織の中で対等に渡り合う日本人」。どうもそれが日本人の考える、日本人の最も格好いい姿であるようだ。それが彼らの言う国際化というものらしい。
全くもって情けない限りではあるが、それでいいのかもしれない。
日本人が変に張り切ると、また70年前みたいなことをしてしまうかもしれないから。