時事その他についての考察

「おかえりモネ」は倫理観を問う物語だったのではないかという考察

勿論、物語には色々な捉え方がある。

しかし、その中で倫理観は重要な主題になっていると思う。

《最初に言ってしまうが、個人的には、倫理というのは答えのない、泥沼のようなものなのでそこを追究しても仕方がないと思っている。しかし勿論、人がそれについて深く考えることは否定しないし、立派なことだと思う》

災害の被害者についての物語を作る時に避けるわけにはいかないのは生命や財産に直接、被害を被った人たちのことだろう。

これは、「モネ」では及川親子によって描かれている。

こんなことを言うと不謹慎だが、彼らを主役にして物語を作ったとしたら、手練の脚本家や制作陣をもってすれば一定水準の感動作を作ることは難しいことではなかったはずだ。

(勿論、簡単にできるというものではない。しかし、その制作過程は職人的なもの、すなわち、既に持っている技能を使って作るものになったであろう)

「モネ」の特徴として、大量のアンチが生まれたことがある。しかし、彼らも及川親子の物語は否定しなかった。それは、(失礼ながら)及川親子の物語はとてもわかりやすい話だったからだ。

確かに一つの大きな軸として、及川親子の物語が置かれることになったが、(親子の物語は最終回まで続くことになる)「モネ」の制作陣はそれだけで止まるつもりはなかった。

当然、すべての被災した方々はなんらかの傷を負わざるを得なかった。しかし、その中に自分が直接受けた傷ではなく、傷付いた他人に対してなんらかの「負い目」を背負ってしまった人たちがいた。

及川親子と違い、物質的は被害はあまり受けなくとも、しかし、かえって比較的被害が少ないことによってまた別の種類の傷を負うことになった人たち。

この物語の主題は彼らにある。そして、それを体現していたのが永浦家の人々だった。

《事態を複雑にしているのは、半年にも渡る物語の中で、主人公である百音以外の家族の傷は最終盤になるまで明かされなかったことだ》

最終的に明かされた家族の傷はこうであった。

小学校教師であった母親の亜哉子のそれは、未曾有の災害のなか、児童たちを守ろうと必死になっている時、自分の娘たちのことを思い、娘たちを探しに行こうとして(10分だけ)児童のもとを身も心も離れてしまったことだった。(児童はみな無事だった)

姉妹の妹である未知の場合は13歳の身で一人、認知症の祖母を助け出そうとしたが祖母がまったく言うことを聞かず動いてくれなかったのでやむ無く一人で逃げてしまったことだった。(祖母は他の誰かに助けられ、無事に避難することができた)

父である耕治は、(耕治と姉の百音は百音の高校受験の合格発表を見るために実家を離れた地方都市におり、直接的な被害は免れていた)非常に近しい存在である及川家の受けた被害に対して自分が何もできないことを責め続けていた。

姉娘であり、当時おそらく15歳であった主人公でもある百音のそれは、災害時、父と共に故郷にいなかったことにより、その真の恐怖と、一番大変だった時間を共有していない部外者になってしまったこと、家族や仲間たちの傷に対して自分が無力であることにあった。

こうして並べるとわかるように、百音の負った傷が一番わかりにくい。普通ならば傷にはなり得ないような経験である。

《さらに家族それぞれの傷も、それが決定的なものになってしまって、及川親子のそれとの区別が曖昧にならないように注意深く設定されている》

しかし、だからこそ、それがこの物語の最大の主題になり得るのだ。

《この、わかりにくい主人公を設定したことが視聴者を混乱させることになった。主人公の行動の動機がまったく理解できず、またすることを放棄した人が物語に共感できるわけはない》

誰もが理解し、心を痛める及川親子のような被害者と、他人には何故そこまで傷付いているのかすら理解できない傷を負ってしまった百音のような存在。

そういう全ての被害者を、その救済まで描ききろうという、一見狭くみえるが実は壮大な主題に挑んだ物語なのだ。

《実は僕も百音の傷を理解することはできない。できるのは、そういう人がいるのだ、ということを受け入れてその心中をおもんばかることだけだ。また、百音という役柄がどういう経緯で生まれたのかも勿論わからない。モデルやヒントになった人がいるのか、脚本を書いた人がそういう感じ方をする人なのか、それとも直接的な傷と最も遠い部分で、しかし大きな傷を負う存在を考えた末に生まれたのだろうか》

通常の感性の人間ならばそれほど気にしない事柄に対して傷付きうちひしがれ、その傷に立ち向かって、共存できるようになるまでに10年近い年月と大きな努力を必要とした人。

そうなるため、自分だけでなく、周りの人たちも手助けできる力を手に入れた人。

そういう彼女を手助けしたり、寄り添ったりした人たち。

そういう人たちに満ちた世界も存在し得るのではないのかという、祈りにも近い思いがこの物語をつくったのだと、だからこそ、その思いが届いた人たちには深く通じることになったのではないかと思う。

追加考察:制作者の意図は、すべての被災者とその再生を描ききることにあった。

直接的に大きな被害を受けた人たちの代表が及川親子である。

反対に、一見、一番被害が少なく見える被害者はどういう人か、と考えた時、それはその場にいなかった者だ、というアイディアが生まれたのではないか。モネの設定はそのように出来たのではないだろうか。

追記2: モネや耕治も勿論なのだが、亜哉子さんにしろ、未知にしろ、結局自分の責任の範囲内では被害は起きなかった。彼女たちはそれでも自らを責め続けるのだが、それは過剰な倫理観であり、「きれいごと」なのではないのか、という疑問は残る。実際に主人公であるモネは何度かその言葉を投げかけられる。

それに対するモネの答えが、そう言われることはわかるし、言われても仕方ないと思う、というものであるということは、それは作者の思いでもあるのだろう。何を言われてもそれをそのまま受け止めて自らは進んでいく、ということなのだろう。

それは決意表明ではあるが、同時に自らの正義を完全に信じているわけではないことも表している。

倫理というものには、その内部にいる限り、答えが無い以上、それ以外にとれる道はないのだろう。

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