時事その他についての考察

木下都議の問題は、法治国家などというものはおそらく歴史上存在しなかったことを示している

東京都の都議会議員である木下氏の動向、特に議員報酬の授受が問題となっている。

本来、都議会に出ていなかろうが、議員報酬を受けとることは、決まりの上で許されていることならば問題となることではない。問題となっていることそのものが不自然である。

《議員報酬にボーナスがあることを初めて知った。馬鹿馬鹿しいことであり、我々に議員報酬を少なく見せるためにやっていることならば小賢しいことでもある。しかし微笑ましいことと言えなくもない。本来、営利活動をしているわけではない議員にボーナスはそぐわない。(金額は毎期違うのだろうか。違うとしたらどうやって決めるのだろう)ボーナス分を毎月ごとに割り振って支払うが良かろうと思う》

しかしおそらく、結局は、都議は受け取りを辞退するのではないのかと思う。これだけ社会から非難されても受けとれるほどの胆力のある人はほとんどいない。

この出来事は、法治国家などというものは空想上の存在に過ぎず、あり得ないものではないのか、ということを改めて示すことになった。

「法治」という意味は「決まり事が明文化されている」ということだろう。

現実はどうであろう。少なくとも現在の日本では全ての決まりが明文化されてはいない。 そうして、おそらくそれは歴史上存在した全ての国家に当てはまることだろう。

実際は、国家や社会は明文化された法律と、常識や慣例などからなる、社会的な圧力によって治められている。

そもそも、人間や社会はあまりにも複雑であり、全てを明文化することなどは出来ないことなのだ。

判例というものが重要視されていることがそれを良くあらわしている。情状酌量というのも全てを決めきることは出来ないことを示している。

法律そのものもにしても、例えば刑法では「〇〇年以下の懲役」などと幅を持たせている。

やれてもいない、出来もしないのにも関わらず、「法治」という言葉を使っているのは社会というものはちゃんとやれているのだ、堅固なものなのだ、という印象を与えるためだろう。その印象そのものが社会の安定に貢献するのだろう。それは大袈裟に言えば人類の知恵なのだろう。

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