被害者からの依頼でこれを殺害する。そういう事例がSNSの普及に伴い散見されるようになった。
実際の事件数はわからない。公表されているのかもしれないがテレビを見ているだけではわからない。そもそも正確に分類することは難しいだろう。
ただの殺人事件ではないので我々もこれをどう解釈したらいいのか考えるところではある。
結論をいうと倫理上のことはともかく、社会的にはこれの解釈は単純である。ただの殺人事件である。
何故そう言えるか。こんなことに理解をしめすようなことがあれば、社会倫理や秩序は滅茶苦茶になってしまうからだ。
《これは安楽死とは別に考えるべき問題である。肉体的苦痛に耐えかねてしかも死期が間近の人間を手にかけるのと、精神的な、それも多くは思春期特有の解決可能な悩みに耐えかねた人に対するのとではその意味合いは全く違う》
本当に被害者が回復不可能と思われる問題を抱えていて、純粋にそこから開放させるためになされたことならば倫理的には我々も考えることもあるだろう。しかし社会的、法律的にはそうであってはならないのである。
実際の事例がどういうものであるのか、どういう経緯が多く見られるのか私は知らない。
よく見聞きするのは被害者側はともかく、加害者は快楽を求めて事件を起こしているケースだ。
しかし我々は全部の事件を知れるわけではないので、これをもってそういう事例が多いのだろうと判断することはできない。
我々の倫理観を揺さぶるような事例は公表されていないだけなのかもしれない。また、公表されている事件であっても我々にはねじ曲げられた動機や経緯が伝えられているのかもしれない。
テレビの刑事ドラマでも取り上げられたのを観たことがある。加害者は快楽の目的で犯罪をおかしているという設定であった。話を単純に分かりやすくしたかっただけかも知れないが、そういう設定にすることに何らかの力が働いていたのかもしれない。
しかし繰り返しになるが、そこに誰のどんな判断があるにせよ、現時点ではただの犯罪として扱われるべきことなのである。
《将来のことは又別の話である。社会的な倫理観というものは移り変わっていくものであり、それによって犯罪の定義も変わるのは当然のことであるから》