①一般に、男の顔は履歴書などといいます。うまい言い方ですが、本当は、顔だけではなく、また、当然男性だけでもなく、私たちの動作、行動、表情、目付き、話し方、勿論話の内容、声のトーン、間の取り方、その他何気無い言動すべてに、今まで生きてきた人生が全て反映されます。
②世の中には同窓会というものがあります。多くの方は出席の経験があり、ご存知かとも思いますが、これには決まったパターンがあります。
まずは昔話。懐かしの話です。これで終われば罪もないのですが、そうはいきません。一段落した頃から現在の話になります。段々と、互いの地位の探りあいが始まります。ここで、性格的にか、現在の社会的地位の開きかで、黙って“負け”を認める人もいますが、その人はそのあとヨイショの役回りをつとめることになってしまうでしょう。他の者達の間ではこのあと、いわいるマウントの取り合いが激しく行われることになります。ほどなく勝者はきまるでしょう。あとはその者の一人芝居です。もう、苦労話から自慢話(苦労話も自慢話のひとつですが)から気持ちよーーーー、く、話していきます。最後は今度ナニナニするときは俺にいってくれ、コレコレしてやるから!という感じで終わります。(勿論、社交辞令というやつですね)実につまらないものではありますが、こういうしょうもない見栄の張りあいが人類の進歩の原動力かもしれない、と思ったら、まあ、これもまた一興というものではありませんか。
ドラマなどの落ちでは、一番、その場でパッとしなかった男が、実は、皆の憧れだった同級生と結婚していたことが最後にわかったりします。
③大体八年位前、年齢でいうと四十過ぎの頃でしたが、突然、と言いたい位、世の中や人に対する理解力、認識力が格段に上がったと思えたときがありました。それまでの人生経験と書物などで学んできたことが嵌まってきた感覚がありました。
自分でも大したものだ、と思って、これにさらに磨きをかければ、などと考えていたのですが、その時、気がついてしまいました。これは、つまりは、物事をある程度客観的みることができるようになった結果なわけですけれども、客観的に見ることができる、というのは、当事者ではなく、傍観者になったからにすぎない。つまりは、もう、人生の現役ではなくなっただけなのだ。あとは、死に向かって粛々と進んでいくだけなのだ、と。
そうなって初めて、年配の方々が若い人たちを応援したくなる気持ちがわかるような気になってきたのは、結婚もしていないし、子供もいないせいもあるのでしょうが、遅すぎる位です。がっかりです。
そうして、応援したくとも、応援するに足りるものを何も持っていないことに気がついて、二度がっかりしました。