時事その他についての考察

愛は明治にやってきた

“愛”という概念は明治時代に欧米から来たものだというのは、時々聞きますので、ご存知の方も多いと思います。しかしながら、皆さん場をわきまえてそれ以上ふみこんで説明されないので、なり代わってこれについて少し考えてみたいと思います。

それで、これは女性には余り喜ばれない話なので、女の人はこれ以上は読まれない方がいいです。読まれてもいいですけど警告はしましたからね。怒っちゃだめですよ。

もう三十年以上前のものですが、吉田秋生さんに「河よりも長くゆるやかに」という男子校を舞台にした(一応)少女漫画がありました。そのなかで、恋人の欲しい男子高校生に対して、彼女のいる同級生が、女がいるのもそれはそれで楽じゃないぜ、とさとす場面がありました。(ありていにいうと、自分の好きな時にセックスだけできるわけではないと説明しているのです)

「(相手をその気にさせるムードをつくる為に)話もしなきゃいけないしさ」というのに対して、その恋人が欲しい方の同級生が、全く無心に驚いて、

「話?なにか話すことなんてあるの?」と返すのを読んで大笑いしたろくでなしは、私の他にも沢山いたと思います。

ここですかさず、作者である吉田秋生さんが作中に登場して、男の身勝手さを嘆いて、またひと笑いさせてくれます。

《ところでこれは、吉田さんが恋人か男友達に男の実感を聞いたことを漫画に取り入れたのだと思います。男というのは兎角、口が軽く、わきが甘いきらいがあります。女の人は、同性だけが知っていることをおめおめと男に洩らすことはまず、しないように思います》

ところで、ですから、日本では、明治になる前はこの同級生の感想が普通だったのではないか、ということです。でもこれは、実は当たり前のことで、そもそも異性に好意をもつ、というのは、自分の子孫を残すためにそう思う(ようにプログラムされている)わけで、子供をつくるにはセックスをしなければしょうがない。ですから、異性に対する好意が肉体的欲望と同じことなのは当たり前であり、精神のみの愛などというほうが(そんなものがあるとして)本末転倒で無意味なことということになります。

昔、映画かドラマで、江戸時代にタイムスリップした現代人が村の娘に好意をもたれて、肉体関係を迫られたのにかかわらず、精神的な愛がどうとかいって煮え切らないので、村娘が呆れ、軽蔑して去っていく、という場面を観たような気がするのですが、その作者も上に書いたようなことを思ってつくったのでしょうか。

西洋でも古代ギリシャの頃は性愛も今申しました自然な形態だったように思われます。それが(一見不自然なように)変わってしまったのは、またしても、キリスト教の発展によってなのでしょう。ただ、ここで重要なのは、愛の起源ではなくて、何故それが広範に受け入れられたのか?ということの方だと思います。

何故受け入れられたのかを判断する方法として、その結果どうなったかを検証するものがあります。

それが受け入れられたということは、受けいれれば得になると考えられただろうということです。

ここからは、想像と妄想になります。

愛という概念は一夫一妻制に馴染みやすい概念です。

《当たり前かもしれませんが、イエス登場のはるか前、人類は殆ど創生期から一夫一妻であったようです。私の聞いたなかで最も納得のいったその理由は結果として人類の中でそうした者たちが生き残った、というものです。 メスが一人で子供を育てるのではなく、メスとオスが共同で育てて子供の生存率をあげた種類の人類が結果として生存競争に勝てました。注目して頂きたいのですが、ここに倫理や正義はありません》

イエスがいた社会では、まだ社会生活に色恋沙汰を持ち込むことが多々あり、困ることがあったのではないでしょうか?社会生活の少なくとも表面から性愛を除くことが必要だということは皆わかっており、あとは理論の裏付けが必要でした。イエスはそれを与えたことになります。(ご指摘の通りこの話の流れは少し弱いです。しかし以下に述べます現象に大きな影響を与えたことは事実ではないでしょうか)

その結果、西洋社会は、性欲を家庭に閉じ込めることによって、それ以外の組織から性を排除することに成功しました。農村社会ならともかく、都市が成立してからの組織に色恋が持ち込まれれば仕事に支障がありますので。

勿論、西洋以外の社会でも事情はおなじです。私はあとは東アジアのことしか知りませんが、中国人が発明して、朝鮮や日本も喜んでとりいれたのが儒教の倫理ではなかったのではないでしょうか。

でも、皆本当はそんなことはわかっています。だから組織に隠れて男女がくっついても大概、祝福されておわるし、本人達もおおっぴらに発表する時期がくるまで、(その時がこなければ最後まで)隠しています。

それで、今後どうなるかなのですが、平和が続くと規律は緩みます。今の話でいうと、キリスト教や儒教の成立前の社会に近づいていくことになります。私たちが真に平和を望んでいるというのなら、それに慣れなければいけません。若い人達の風俗に本気で腹を立てる心のありかたは戦争を支持する心と近いことは知っておかなくてはいけません。

まあ、世の中の変化を楽しみながら見てみようではありませんか。(見るのではなくて、参加するのだ、というかたはお好きにどうぞ。参加するのではなくて、自分がつくっていくのだ、というかたは頼もしい限りです)

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