春風亭一之輔さんの落語、「粗忽の釘」を聴いてひっくり返りました。これは、落語の中でも粗忽者、すなわち、おっちょこちょいの登場人物を描く種類のものなのですが、そのおっちょこちょい振りが誇張を通り越して滅茶苦茶なのです。もともと、粗忽者を描くタイプの落語は有り得ない、誇張されたものですが、まあ、度を越しています。
申し訳ないのですが、わたしの文章力ではこの面白さを伝えられないので、具体的にどのように無茶苦茶なのかは実際に聴いていただくしかありませんが、少しでも落語に興味がある方でしたら是非、そうではない方にはさらに強く、おすすめします。
ご本人の発言を 聴いたことがあるのですが、一之輔さんは自分で大きくアレンジする落語と、伝わっているオーソドックスな筋立てを大体、忠実にやる落語とを、その噺の性質に応じて区別しているそうです。
ここからは勝手な推測になりますが、一之輔さんが古典落語にかなり大きく手を入れる、入れられるのは古今亭志ん生という存在があったからだと思います。
そう思う根拠はあります。一之輔さんが出演されており、おそらく、その内容を決めるのにも関わっているだろう、落語を紹介するNHKの教育テレビの番組があるのですが、 その中で、志ん生さんがいかに、古典落語に工夫を凝らして大きく手を入れて(もともとは三十秒くらいの場面に色々手を加えて三分ぐらいにしたり)より、面白いものに変えていったのかを説明した回があったのです。
古典芸能というものも、初めから古典であったわけではありません。何世代にもわたって受け継がれたなかで、各世代の人たちが受け継いだ噺を工夫を凝らして変えていき、また、新しい噺を考えたりして続いてきたものが、いつか、古典芸能ということになり、一段高い所に置かれてしまったのです。
そうなると、受け継がれたものが神聖視されてしまって、多少変えるぐらいなら工夫で済むけれども、大きく変えるなどは不届きな振舞いだ、と成りがちです。本当はそうではなくて、常に変わってきたからこそ、時代が変わっても残ってこられたのだ、ということが忘れられがちです。そうして、意欲のある若手がアレンジしたものをやろうものなら潰されかねません。その時に、もう、神格化されている存在である古今亭志ん生もそうやっていたのだ、というのは自分なりの落語をつくろうとして苦闘していたであろう、一之輔さんにとっては大きな心の支えにもなり、また、自らの進むべき道を示す手本にもなっただろうと思うのです。
古今亭志ん生と春風亭一之輔の間に古典落語の可能性を広げようとしたもう一人の落語家がいました。立川談志さんです。これは以前、談志さんと古今亭志ん朝さんについて綴ったときにもいったことですが、立川談志という人は古今亭志ん生がそうした様に、落語をその時代にあったものに、さらには時代をこえたものにしようとされた、いわば精神的な志ん生さんの直系の跡継ぎだと、自らのことを考えていたのではないのか、と思うのです。
但し、志ん生さんの工夫と談志さんの改革は、表面上の方向はまったく違うようにみえます。
《ここらへんは話はじめると長くなってしまいます。思いますに談志さんのやろうとされたことは、落語にそもそも描かれている人間の業、見栄とか外面や自分に対する誤魔化しなどを取り払ったあとに見えてくる、美しいものも醜いものも含んだ人間の姿、それをメイン・テ―マにして噺を再構築しようとしたことが一つ。
もう一つは『芸というのはドキュメンタリーだ』という意味の言葉に込められている、芸にはそれをやる人の人格、それまで生きてきた人生すべてが反映されるものだ、そうであるならば、芸のなかで自分そのものをもっと表現するべきなのではないのか、そのくらいの芸ができるところまで達することができた自分というものを 、正面からさらけ出すべきなのではないのか、ということを追及したのだと思うのです。そうして、それは、古今亭志ん生が実際にやっていたことである、と談志さんは思っていたのではなかろうか、と思うのです》
一之輔さんがやられていることは、落語のなかで自分が面白いと思うところを素直にさらに面白くしようと考えてやられているように感じます。先程申した通り、その支えの大きな一つは志ん生さんだと思うのですが、実際にそれをやって許されるのは、もともとの落語界の気風もあるのかもしれません、ご自身の実力のおかげ、ということもあるでしょう。しかし、立川談志という落語家が落語界において変化、変革を見慣れたものにしていたことも大きいのではないのか、と思うのです。そう考えると、談志さんが残した遺産は、やはり、大きいものです。