時事その他についての考察

断片 2

プロ野球がわかりやすいですが、解説者というのは、皆、元一流選手だったので、大体においてそれぞれのいうことぐらいはお互いに知っているはずです。それでも、私たちにとっていい解説者、今一つの解説者がいるのは、自分の知識のなかから、何を伝えれば周りが喜ぶかを、知っているかいないかの違いな気がします。

プロ野球の解説者ですが、声を張って話す人と、ぼそぼそ話す人がいます。一般的に少しでも笑わせてくれる人は声を張ってわかりやすく話してくれます。ぼそぼそ派には解説者としての評価が高い人が多い気がしますが、聞きとるのに神経を集中するのがいやなので、私は音を落としちゃいます。

私たちは、貧しいと助け合い、少し豊かになるとその心を失う。

社会に出て、仕事を覚えて、二十代後半あたりが生意気盛りでしょうか。はたから見ると少しうっとうしい年代です。その他、幼年期から老人になるまで、世代ごとに性格の特徴があるようです。その年代だから似合う、または許されることはあります。年代ごとに課題を解決していって、自分を成長させないと、年だけとって態度は変わらないという、少しく、やっかいなことになってしまいます。私などは、いまだに五歳児あたりで止まっているようです。

あるアメリカの作家の短編集を読んでの感想です。この作家は、他者に対する恐怖、こちらからコントロールすることはできないし、時には暴力的になることもある、理解を越えた存在であるものの恐怖を描いているのだと、さらには、自己もまた、実は他者と同じなのではないか?ということを書いていると解釈しました。ところが、ネット検索してみると、そんなことをいっている人は誰もいません。さらには、作家自身も作品の意図について全く別のことをいっているようです。なるほど、すぐれた短編というのは、読み手の無意識を炙りだすようです。私自身の中にそういう気持ちがあるのでしょう。ちなみに、その作家は フラナリー・オコーナーです。

「要するに」とか「つまり」などの言葉を多用する人は、要するに、その本人の話がまとまっていないだけです。

湾岸戦争のときの話です。古い話題で恐縮ですが、そのときからあまり変わっていないと思いますので。戦争が終わった後に、クェートが出した感謝の新聞広告に日本が入っていなかったことが日本国内で随分話題になりました。概ね、日本の態度を恥じ入る論調が多かったようです。しかし、あれは、クェートが無礼かつ愚かだっただけです。(無礼はわかると思いますが、愚かというのは、当時、間違いなく大国であった日本を敵にまわすかも知れない、無意味とも思えることをしたからです)日本もあの程度のことをされて恥じるようなら初めからやらなければいい。また、やったのなら、いやしくとも、国家がやったことなのだから、何をいわれようと堂々としていなさい。湾岸戦争で行った不様な戦争協力よりも、あの新聞広告一つでうろたえたことのほうが、よほど恥ずべきことです。

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