たまに絵画の真偽が話題になることがあります。しかし、絵の価値などというのは、その真偽や、誰が描いたかにかかわらず、あなたやわたしがそれをどう思うかで決まるのではないのでしょうか。
えーとです、2パターンありますよね、真偽の鑑定といっても。描いた人が、贋作として描いた場合と模写あるいは、巨匠の工房にいた弟子の作品ではないかと疑われる場合です。
本当は、贋作も含めた話としてもいいと思うのですが、無駄な異論を避けるためにとりあえず、贋作と模写は除外するものとします。
もう、結論はいってしまっています。
レオナルド・ダ・ビンチが描こうが、レオナルド熊が描こうが、ダ・ビンチ白熊が描こうが、素晴らしい絵は素晴らしいし、そうでないものは、そうではありません。
巨匠と呼ばれる人にも、凡作はあるだろうし、二流作家が傑作を描く可能性もあります。
作品が良ければ描いた人は誰であってもその価値は変わらないだろう、ということです。
X線がどうとか、科学的に見てどうかなどは、学術的なことはともかく(作品の成立過程が明らかになるなど意味のある発見はあると思います)本質的な価値とは無関係です。
それとも、はじめに観たときには感心しなかったのに、巨匠の作品とわかったら感動しちゃうんですか?
私も、なにも喧嘩腰になることもないのですが、本質をみるって言うのはそういうことではないかと。
まあ、お金が絡みますから、当事者たちが躍起になるのは仕方ないですし、技術者が自分の技術を試したいのは理解できますが、部外者まで騒ぐことではありません。
繰り返し同じことをいっていて恐縮ですが、《真作と判明した誰それの何々が緊急来日!》などといったあおりにのって観客が押し寄せる、などというのは考えものだ、ということです。
ついでだからいっちゃいますけど、贋作だって出来ばえが素晴らしければ評価しちゃっていいのではないかと。残念ながらオリジナリティはゼロなのでそこは大幅に減点ですが。
似た話ですが、何年か前に、盲目の作曲家の作品がゴーストライターのものだった、というのがありました。
さっきの話の後なので、もう、なにを言いたいかはおわかりだと思います。はい、ゴーストライターのものだろうと、作品が素晴らしいのでしたらそれでいいではないでしょうか。
作曲していなかった盲目の方は気の毒ながらご退場頂くしかありませんが、作曲した方は、(少し怒られるのは仕方ないとして)作品の評価まで変わるのは本来、おかしいですよね。パラリンピックで実は障害がなかったのがバレたというのではないですから。
でも、すでに恥ずかしい思いを散々されてらっしゃる方々がいるでしょうから、このへんにしておきます。(まあ、偉そうにいっても、正直なところ、ひと事でもないです)