物欲が少ない者にとって、高価なものを沢山買う人の心情 というのは今や理解しがたいことです。今、“今や”といいました。なぜか。私たちには子供だったころがあり、子供は物欲の塊だからです。これは、いいかえれば向上心の塊といえます。物に対する欲望、自分の能力の向上に対する欲望、そうして、根本は皆、同じもののようにみえます。子供はまだその欲望を実現することの大変さを知らないので素直にそれを出せるのでしょう。そうなると、物欲の少ない人というのは、諦めてしまった人、ということになります。そうして、大人になってもそれを露にできる人はそうできるだけの能力もしくは生命力、エネルギーを多く持っているのでしょう。
この欲望のエネルギーが人間社会を今の形につくってきました。ここで、何故人間だけ、と思うところですが、人間の持っている過剰といっていい欲望実は少なくとも霊長類には、おそらく本当は哺乳類全体にもあることです。但し、それは自然界では表にでることはほとんどありません。あるいは秩序のなかに組み込まれているので目立たないのかもしれませんが。しかし、実験など、人間と接することによって目立って発揮されることがあります。例えばネズミに高いカロリーのものを与え、かつ、それを獲得する方法(レバーを100回押す、とか)を教えると延々とそれを繰り返して高カロリー食のものを食べ続ける、とかの実験をたまに目にします。
つまり、いうなれば哺乳動物には際限のない物欲を追い求める素質はあるのです。そうすると、何故そんな素質があるのかということと、何故それが人間にだけに開花したのか、という謎が生まれます。
《ところで、先程、ネズミの実験の話をしましたが、こういう話になると、人から見たら神としか思えないような存在が人がネズミにするように地球の自然や生物で実験をしているのではないのか、というよくあるSFの設定を思い浮かべてしまいます》
その答えによっては、人間が万物の霊長であるという、昔は当たり前で今は否定されかかっている考えが、やはり、正しかった、ということにもなります。つまり、人間の性質は進化の進み方にそのまま添ったものであり、進化の鬼っ子ではないということになるからです。
その進化の進んでいる方向とは、個々の生命体が自分(とその子孫)の欲望、欲求のみを得るために生きていくことのように見えます。そうして、確かに、繁栄が生物の目的であるならば、その方法論は正しかったことを我々人間が証明しています。
ところで、人間のみが獲得できた生命力、エネルギーの源はやはり馬鹿でかい脳みそでありましょう。これを維持するのに、人間がどれだけのカロリーを必要としているのか。(詳しくは知りませんが、人間が必要としているエネルギーのかなりの部分が脳の取り分だということはよく言われます)カロリーはすなわちエネルギーであり、生命力であるわけです。それだけのものを(主に食料として)取り入れているのですから、その生物が放つエネルギーが大きなものであるということも理解できます。どうなのでしょう。一般に生物が必要とするカロリーは体の大きさから計られています。ヒトが必要とするカロリーはその体の大きさに比べて不釣り合いに大きいのではないでしょうか。そういうデータがあるかどうかも知りませんが、脳が他の器官よりもかなり多くのカロリーを必要とするという話からすれば、当然そうなる筈ですが。そうであるならば、他の生物に比べてより、多くのカロリーを摂取する種であるヒトが、より多くのエネルギーを持つ種であるヒトが、他の生物を圧倒するというのも理の当然ということです。
ところで、初めに物欲について触れました。一体に物欲の少ない人たちはそれが多い人たちを少し軽く見るきらいのがあります。その考えが大いなる勘違い、もしくは嫉妬の裏返しであるということは説明できたと思います。しかし、物欲が少なくなってしまっていたら、そこに降り向けられた筈のエネルギーが余ってしまいます。それはあまりよろしくない方向にいってしまうことが多いと思いますが(素直に発揮されるべき欲望が一度抑えられて別の方向にいったのですから、屈折して反社会的な出方をする可能性は高くなります)人によっては単純に考える、という方向に向かいます。(そうです、今まさにわたしがやっていることです)そういう人たちは自分たちのことを少し高く評価するきらいがありますが、実は、行き場を見失ったエネルギーの発散口であり、知への欲望というのも物欲と同じ根っこのものなのでした。(そういえばJ .Dサンジャーが「フラニーとゾーイー」の中でそう言っていました)