時事その他についての考察

新撰組は傍系の話

歴史上の出来事や人物、団体で人気の高いものがあります。また、歴史上、重要な出来事や人物、団体があります。両者は一致することもありますが、そうでないこともあります。新撰組などは人気は抜群ですが、歴史的には重要性は低い団体の代表例です。

こういう人たちがいわば過剰に注目されるのは、存在がドラマチックだったり、鮮烈だったりするからですが、きっかけは大体、小説などのエンターテイメントに取り上げられて、それがヒットしたことが多いようです。坂本龍馬は勿論、立派な仕事をされましたが、司馬遼太郎が小説の題材に取り上げなければ今の人気はなかったでしょう。

反対に本来は極めて重要な仕事を成したにも関わらず、注目度が低い人物もいます。日本史上、重要な政治家といえば、聖徳太子、源頼朝、徳川家康、大久保利通、吉田茂というところです。やはり、政治家であるので、平時の人物よりも、時代の転換点を担った人を挙げざるを得ません。時代の転換点であるということは戦乱の時でもあるので、政治家であるとともに、武人、軍人でもある人が多くなります。(聖徳太子も戦いに参加しました)

この中で、やはり、源頼朝と大久保利通が人気、評判ともに今一つなのは気の毒なことです。やはり、新撰組と違って、ドラマ性や、なによりも鮮烈さに欠けてみえるのがその原因でしょうか、どうしても性格が内向きで陰険な感じがしてしまうのでしょう。しかし、本当は、源頼朝は勿論、大久保卿にもドラマチックな場面はあるのですが。幕末の宮廷工作で倒幕を決める場面とか、これは明治に入ってからの話ですが、台湾出兵あとの和平調停で北京に乗り込んで強引に交渉をまとめた手腕など。そのどちらの時にも、命を投げ出す覚悟で交渉に臨んだといわれています。格好いい人なんですけれど、実は。

新撰組の話でした。新撰組などが物語に取り上げられてる場合には、あたかも、彼らが日本を担っているかのように書かれかねません。話を盛り上げるためにはある程度は仕方ありません。これは、読者側がいくらか高度な技を使って、意識の半分位は物語のフィクション性に乗っかって、新撰組こそが日本の未来の鍵だ、位に思いつつ物語を楽しみ、残りの冷静な半分でそれは大変に大袈裟な話で、新撰組などは幕末の特殊な状況で一瞬、存在感を示した与太者たちに過ぎない。とわかっていなければいけません。

源頼朝を巡る話も似ている所があります。お話として取り上げられるのは、やはり、源義経の合戦とその後の悲劇になるのでしょうが、未来を見据えつつ、重要な仕事をしたのは勿論、兄貴の方です。源義経の物語を楽しみつつ、やはり、それは理解しておかないといけないことです。

分野は違うのですが、似た話で、太宰治が、当時、小説の神様などと呼ばれていた志賀直哉の仕事を小説における傍系の仕事だ、という意味の評をしたことがあります。おそらく、物語性のある長編小説こそがメインストリームだと言いたかったのでしょう。太宰治本人の仕事も王道とは離れたもので、本人もそのことは知っていました。自分はそれを受け入れて、自分のやっていることがいかに優れていようとも、あくまでも謙虚でいよう、と思っていたところに、自分よりも、さらに傍流のことをしている人があろうことか、“小説の神様”などと根本的に勘違いなことをいわれて、本人もそれを平然と受け入れている、ありきたりな慣用句を使わせて頂くと、開いた口が塞がらない、といった気持ちだったのでしょう。私などは、当時生きていれば、その状況になんの違和感も持たなかったでしょうが、時代を隔ててみれば、太宰治の言い分は大変、よくわかります。

挙げ句、お相手の山崎富栄さんにとってはともかく、太宰治にとっては全く無意味ともいえる心中などをして、気の毒なことでした。

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