・一口にいうと、民主主義が根付いていないということになってしまいますが。
・エンターテイメントの人は職業柄そのイメージを守る責任がある、作品に色をつけてはいけない、というのが反対する人たちの論拠のようですが、成熟した社会ならば、作った本人とその作品は全く別のものとして扱うべきです。
・といってもよくお分かりにならないかもしれません。例えば子どもが悪い人を演じた役者のことを、本人も悪い人なのだ、と思いこむのを見ると大人は笑うでしょう。そのレベルが少し上がっただけです。
・もしそれが出来ないとしたら、失礼ながらそれは出来ない側の問題であって、発信者の問題ではないのです。
・これでは説明になっていませんが、先の例であげた子どもにも、役者本人が悪い人なのではない、といくら丁寧に話をしてもわかってはもらえないでしょう。それと同じです、といったらこれも失礼なのでしょうね。まぁ、今は腹を立てていても、なんとなく、頭の片隅に置いておいていただければ時間がたてばお分かりいただける、かもしれません。
・薬物、浮気などいわいる不祥事を起こした人の関わった作品が公開されなくなるのも根はおなじなのでしょう。ただし、こっちに対しては、例えば不祥事を起こした役者なりと、作品は別だろう、ということをいわれる方は結構おられるのは少しだけ、希望が持てることです。
・考えてみれば、本人と作品を分けて考えることは、昔の人とその作品にたいしてはほとんどの人がやっていることです。考え方を少し柔軟にすることができればいいのですが。
・少し話はずれてしまいますが、例えば小説のテクニックは常に上がっています。発表当時、ありかなしかの議論になった技などは時間がたてばほとんどがありになっているでしょう。ありどころか、先駆的な技だ、と賞賛されるでしょう。わたしなども結論のない小説などに対しては、無責任だ、などと思っていたものですが、そのほうが作品の世界が広がる、という説に今では納得しています。
・そもそも小説などは昔は実話だと思っちゃった人もいたはずで、そういう人のなかにはそれを騙された、と思い込んで、小説そのものを否定する人もいたでしょう。
・次は別の論拠での反論です。そもそもエンターテイメントに関わる人は政治的発言をしてはいけない、という発想は人権侵害そのものです。
・ただし、本人が発言しないことを選んだとしたらそれはそれで尊重するべきです。
・だからといって、なんでもいっていいものではない、と実は、個人的には思います。それについてはここで触れてしますと話がごちゃごちゃになってしまうので、別項にします。(多分)