時事その他についての考察

議論という名のもとで議論になっていることはほとんどない、のです

あるべき議論の在りかたというのは、順番としては、まずは互いに意見をだしあう、次にその中から意見の一致しているところ、違っているところをより分る、そのあとに違っているところについて話をして、どちらの考えが、より、優れているか、正しいのか、を判断する、というものだと思います。

重要なのは結論を客観的にみても耐えられるものにしなければならない、あくまでも正しいかそうでないか、有益かそうでないかで判断しなければならず、決して話の上手い、下手その他、本質と違うことが影響されてはいけない、というのが本来あるべきものだと思います。

それが一応は実現されているのは裁判所であって、これは、つまりは、裁判官という客観的で公平な第三者が結論をだすので実現できているわけです。

そういう第三者のいない議論、論争というものは、その目的が「より良い結論を出そう」というものではなく、いかに相手をやり込めるか、というものに変わってしまいがちであって、それを頭に入れておかないと世の中にはびこる、無益かつ、無意味な議論、論争を理解することはできません。

ところで、この、「議論の目的は相手に勝つことにある」ということを当たり前だと思っている、つまりは今、わたしがいったことなどは、何を大前提なことをわけのわからない前置きをつけていっているのだろう、と思う人は一定数おられるのです。考え方がわたしと近い方はそれを頭に入れておかないとずっと、答えの出ない疑問を抱き続けることになってしまいます。

本来あるべき議論をするのならば、駆け引きなどはもってのほか、手持ちの互いに手持ちの情報はすべて場にさらさなければいけないのですが、そんなことをやっている人は見たことはないでしょう。

つまりは、現実には私たちは「あるべき議論」と「勝つことのみが目的の議論」の間のどこかで議論をしているわけです。

よく、「互いの主張が真っ向から対立している」などといいますが、それぞれのいっていることをちゃんと見ると、確かに結論は正反対のことになっていることでも、それぞれがその根拠としていることは別に矛盾しているわけではないことが多々、あります。どういうことかといいますと、それぞれが自分の都合のいい結論にするためにその結論に合うことだけを選んで理屈をつくっているわけです。そうですねぇ、邪馬台国がどこにあったか、という議論を例にとってみます。これはご案内の通りほとんど、九州北部と近畿地方のどっちにあったか、という争いですが、このどっちにあったか、ということを推測できるのは、今のところ「魏志」のなかの「倭人伝」にしかないわけで、北九州派も近畿派も倭人伝の中から自分たちの都合のいい部分を取り出して根拠としており、しかも互いに互いの主張そのものは否定していない(出来ない)のです。

邪馬台国の所在地をめぐる論争は新しい資料、証拠がでない限り結論のでない話です。しかし現在の論争は冷静にその論点をはっきりさせれば正否がはっきりするものが多いはずなのですがそういうことはしないで、つまりは相手のいっていることは無視してひたすら自分の主張だけをくり返し言い続けるだけに終わっている論争が多いようです。そんなものは議論とはいえない、と思うのですが。

と、いままで書いてきたことはただの理想論なのかもしれません。現実にはほとんど「勝つことのみを目的とした議論」しか存在しないのかもしれません。

“説得力”、“あなたには言われたくない”という言葉がよくいわれており、誰もそれに疑問をもっていないようにみえます。今まで書いてきたことからすれば、説得力に富んだ人にいわれようが、それをいう資格すら無いような人にいわれようが、内容が全てであって、大体、誰にいわれようが、自分のためになりそうなことは受け入れて、そうではなさそうなことは無視をすればいい、と思うのですが。

くり返しになりますが、世間一般ではそういう見方をする人はほとんど、いないようで、有名な歴史上の逸話を引かせて頂くならば、当時攘夷派だった坂本龍馬が開国派の頭目と思われていた勝海舟を暗殺しにいって、しかし、海舟の話を聞いて開国派になった、というあまりにも有名な話がありますが、これは、海舟の話に感心した、というよりもおそらく、それを語る海舟その人の魅力に取り込まれた、ということではないのでしょうか。ありきたりの例えで申し訳ないのですか、わたしがタイムスリップをして攘夷派当時の坂本龍馬に会って、勝海舟がいうであろうことと全く同じことをいっても、おそらく、龍馬さんの心を変えることはできないだろう、と思うのです。

論点がブレブレに見えるかもしれませんが、そんなことはないのですが、わたしとしては議論というものはより良い結論を出すための手続きなのですが、一般的には「俺様」を主張するための手段だ、ということです。それにつけ加えるならば、一般的にそうであるのであれば、それに乗っからないと、うだつがあがらないことになるので、そうしたほうがいいですよ、ということです。

これを一言でいうと、長いものには巻かれろ、ということになります。

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