時事その他についての考察

世界情勢や経済の予測をエンターテイメントにしてはいけないと思いますが

将来の経済や世界情勢を予測する記事をよく見ますが、プロ野球のペナントレースの予想をするわけではないので、いい加減におやめになられたらどうですか、というのが今回の趣旨です。

ですので、“ああ、そうだね”と思われた方は多分ご理解されているので読む必要はありません。

“こいつは又また、何を言い出すんだろう”と思われた方の中で“まあ、ちっとは聞いてやろうか”と思っていただいた、奇特なかたに向けて書くことになります。

まず、申しておかなければならないのは、そもそもお座敷が掛からなければ、つまり、新聞なり、雑誌なりからの依頼がなければそういう記事は書かれないといことです。

依頼がある、というのは、読者、つまりは私たちがそれをもとめている、ということです。

私たちはついつい、“結局はどうなるのか?”という短絡的なことを聞いてしまいがちです。しかし、本当に聞くべきなのは、考える材料を教えてくれ。ということです。記事を書いた人がその結論を出すにいたった道筋が大事だということです。

未来予測ではなく、現在もしくは過去のことを分析した本は沢山出ています。みなさん、見事な分析をされています。しかしこれは、結果論というものです。スポーツの解説では結果論は見下される傾向がありますが、学術的なものに対してはそういう意見はあまり聞かれません。ひとつには彼らの仕事はそもそもほとんどが結果論だからです。

彼らの分析に説得力がある理由のひとつは、無数にある事実のなかから自らの理論にあう部分を抜き出して話を進めているからでもあります。また、事実にあう理論が出来るまでチャレンジし続けることができます。予測が難しいのはそれが出来ないからです。

例えば毎年専門家が何人か集まって風物詩のように経済予測をしますが、喧々諤々の議論が始まります。しかし意見がわかれるそのことが予測の不毛を証明しているといえます。その時に誰の意見が優勢かの判断をしたりしますが、そうではなくて、やるべきなのは皆の意見を公平に判断して考えられる可能性をいくつも出すことです。そうして、それぞれの可能性が実現する、必要条件、充分条件を示すことです。

別の言い方をすると、予想できるシナリオを複数用意して、それぞれが的中するのに必要な条件をつけ加えるべきです。

判断の根拠になっている情報を示してくれないと、建設的な批評は出来ませんから。

でも、多分、そういう記事は面白味に欠けるし、読まれないのでしょう。冷静で合理的な判断などというものは聞いていて面白いものではないのでしょう。仕方ありません。仕様もない予測はまだまだ続くのでしょう。

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