人間は食べて寝て少しのいい仲間と家族がいれば幸せの筈ですが

山本周五郎が確か、「季節のない街」のなかで描いていたと思いますが、日傭仕事を生業としている中年男性が酒を呑みながら、“この酒を週にいっぺんとは言わない、二週間のうちに一回でも呑めれば、あとはなにもいらない。充分に幸せだ”と述懐する場面がありました。自らの生活水準を考えるときには、いつもこれを思い出してしまいます。

少なくとも日本を含むいわいる先進国では、大多数の人にとって食べ物の心配はさほどしなくてもいいことです。ですので幸せを感じる為には周りの人たちと上手に仲良くしていれば事足りるわけです。これは、個々人の心構えで充分に可能なことです。

生き物というのはそれが生まれてこのかた、生きるために必要なエネルギーを確保するために四苦八苦してきたわけで、そこそこの仕事をしていればその心配がないという、現在のようなことは、その規模において例のないことです。

このような生物発生以来の稀に見る幸運は有り難く受け取って、皆、幸せに暮らせばいいようなものですが、現実には問題が山積しています。

全ては心の持ちようにも思えます。実際に書店にいけば対人関係における心をコントロールする方法を指南する本が沢山あります。

日本でも一昔前、生活にもっと苦労していたときには、皆、もう少し上手くやれていたことなのです。では何故、出来ていたことが出来なくなってしまったのか。

必要性が少なくなったから。ということかもしれません。生活水準が低くて、皆で助けあわなければ生き残っていけなかったときには、自然に助け合い、感謝しあっていたのが、周りの助けがそれほど必要ではなくなったので、それぞれエゴを主張したくなってきて、それによって生まれる余計なストレスを避ける為にも人間関係を希薄にすることを選んだ。

これも一応、筋が通っていなくはない考え方です。しかしながら、人とのつながりは原始の時代に生存戦略として集団生活を選んだ人類にとって、ストレスである前に大きな喜びであるはずです。集団生活をうまく進めるために、人とのつながりから快感を得るように進化してきたはずなのです。それを振り切ってまで自ら孤立を選ぶ人たちが多数存在する別の理由がないでしょうか。

ひょっとすると、我々全体でリスクを管理しているということかもしれません。

全員が幸せということは全員が同じ方向を向いているということになります。仮にその方向を向いている人間が全て大きな損害を受けるなにかが起こるとすると、全員が同じタイプだと損害が壊滅的なことになります。それを避ける為には色々なタイプの人間がいなければいけません。

多数派とは言えない人たち、例えば引きこもりの人たち、ニートの人たち、大きな声ではいえませんが犯罪者たち、それら、大多数とは別の方向を向いている人たちが常に存在するのは全体の利益に必要だからかもしれません。

近い例ではオタクといわれる人たちがいます。その存在が知られてきた当初はかなりの偏見をもたれていました。しかし、今や日本経済においては彼ら彼女らの貢献はとても重要なものです。コンピューターなどもその中枢を担っているのはおたく色の強い人たちなのではないでしょうか。

この仮説が正しいのかどうか、わたくしにはわかりませんが、もしも自分社会に受入れられないと感じてなやんでいる人がいれば、少しは励ましになるのではないかと思います。スーパーサブであり、切り札であり、ラスボスであるかもしれないんだよ、あなたは。

念のために申しますが、だからといって、少数者への目配りや支援をする必要がない、といっているわけではありません。

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