モーツァルト以降の音楽には全て、観客という視点が入ってきます。
バッハにあるのは神と、それに対する自己だけでした。それがバッハの音楽に永遠性を与えているのだと、グレン・グールドの弾く「フーガの技法」を聴きながら(黒縁眼鏡で青いシャツを着て弾いているやつ。ユーチューブで観れます)思いました。
こっからは受け売りです。本文があまり短いとグーグルがいやな顔をするらしいんです。ツィッターじゃあないぞって。
バッハは「マタイ受難曲」を作曲したときに、一音一音、神に祈りを捧げながら楽譜に音符をしるしたそうです。
バッハが音楽の父といわれている所以は平均律を確立して転調を可能にしたとか、それまでの西洋音楽の技を集大成させたからだと聞いています。彼が何故そのようなことをしたのかというと、そこに、音楽の法則性に、神の意志を感じたからです。
その神の意志、神の御心をしるためにその法則を追及したのです。
同じことは数学の父といわれるデカルトにもいえます。デカルトは数学の法則にそれを感じて、やはり神の造った世界のきまりをしるために数学を研究しました。
ニュートンにとっても事情は同じだった、というとまたお前は適当なことばかりいう、と怒られるでしょうか。いかんせん、わたくしも受け売りなもので強く迫られると困りますが、ニュートンにとっては物理学や天文学の法則が神の意志を推し量る方法だったということです。
西洋人のこういった性質は私たち日本人は忘れがちですが、常に頭に入れておく必要はあります。時代は下って二十世紀に入ってから、量子力学の連中が「世界って結構偶然で出来てんだよねぇ」とガムをクチャクチャかみながら(かどうかはしりませんが)軽薄に言ったときに「神はサイコロを振らない(偶然にたよらない)」と有名な台詞をはいたのはアインシュタインでした。だからといってアインシュタインが西洋でいう、中世の人たちの様に信心していたとはいいませんが。しかし、 そういう心持ちは現在の西洋人にも残っていると思います。
話は戻りますが、西洋人が神の意志を知ろうとしたそのことがキリスト教の神通力が衰えてきていたことを端的に教えてくれます。人は無条件に信じているものの心を知ろうとは思いませんから。