撃墜された旅客機の犠牲者は尊い影響を残します

イラン上空で1月8日にウクライナ国際航空のボーイング737-800型機が撃墜され、乗員乗客176人全員が犠牲となりました。

先程(11日)イラン政府が誤射を認めたそうです。

何の罪もないのに理不尽をに命を奪われた人たちにはかけるべき言葉も見つかりません。ただ、御冥福をお祈りするのみです。

しかし、この方々の尊い犠牲は決して無駄なものではありません。

ソレイマニ司令官の暗殺に対する報復として、イランは米軍基地を爆撃しましたが、人的な被害はでませんでした。一応、これをもって、報復がなされたとするかどうか、イランとしては自国の世論動向も見なければいけませんので、微妙なところでした。

しかし、今回の誤射でイラン政府としてもさらなる攻撃は控えざるをえなくなります。

対立が深まれば、状況がどうなるのかはまだわからない状態でありました。全面戦争などというものはなかなか起きるものではありませんが、小競合いであればその危険は充分にありました。

そのようなことになれば、戦場はイランや、アメリカ軍が駐屯しているイラクになったでしょう。戦闘員は無論のこと、またしても無辜の市民が多数、犠牲になったことでしょう。アメリカ本土におけるテロリズムも全く可能性がないわけではありませんでした。

それが、とりあえずは避けられました。

私たちとしては、亡くなられた方々を悼むとともに感謝を捧げなければいけません。

犠牲になったのは私たちだった可能性もあるのです。また、万が一、戦闘がおきてしまったときの犠牲者が私たちである可能性も、また常にあります。

わたくしは、指導者に対しては、常に一定の敬意を払うべきである、と考える人間ですが、その失策のツケは、結局は力のない一般人が担わなくてはならないことにやりきれない思いをします。


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