太宰治に「家庭の幸福」というそれはそれは恐ろしい短編があります。結句が“家庭の幸福は諸悪の基”というのです。
どういうことかといいますと、ある幸せな家庭を持っているサラリーマンが、たまたま家で少し楽しいことが待っていたので、早く帰りたいがために仕事の上の依頼に対して少し不親切もしくは意地悪な対応をするのです。
その結果依頼を断られた人は死ななければならなくなってしまいます。しかし件のサラリーマン氏はそんなことは全くしらずに幸せな生活を続ける。というものです。
太宰はこれを人間としてあるべき他人への気遣いを怠ったものとして責めるのですが、彼が注目したのはサラリーマン氏がそうしてしまった原因です。この人はただの善良な市民です。ただの善良な市民が自分の幸せを手に入れて、それに浸るところに罪が産まれる原因が起きる。太宰さんは小説のなかではその原因を家庭の幸福で止めていますが、これはそれにとどまるところではないでしょう。今は12月で忘年会のシーズンです。お店から出た団体さんが狭い道を塞いで迷惑をかけている光景はよく見られます。
私たちが何かに気を配れる全体の量は決まっていますので、一人や二人でいるときには出来る周りへの気遣いも仲間が十人もいて、そのそれぞれに少なからず気を配らないければならないとすると、他人のことなどかまっている余裕はなくなるのでしょう。
一人の時も安心はできません。何も考えずにいい気分で歩いているときに、実は道の真ん中を歩いていて、周りの邪魔をしているような光景もたまに見かけることです。
この場合、“いい気分”というところがポイントでして、人は幸せなときには油断をしてしまって、無神経な存在になってしまうようです。
そもそも私たちは自分達が幸せになるため、いい思いをするために生きているといえますが、それを手にいれた時に罪をおかす存在になってしまいがちだというのは皮肉なことなのでしょうか。
そんなことを気にしていたら生きていけない、という意見もあるでしょう。もっともです。それはお互い様だろう、という方もおられるでしょう。全くその通りです。
しかしながら、そういうことがある、ということは知っておかなければいけないと思います。
田辺聖子さんのエッセイで、“薄氷を踏む思いで生きている”と書いているのを目にしたことがありますがさすが田辺さんはこのことをよく知っていたのでしょう。
太宰治という人は生涯、このような繊細な意識をもって生きていたのだと思います。だからといって決して立派な人物ではなかったところがまた面白いところです。
その人となりはかなり知られていますか、立派どころか、端的にいって、クズ、といっていいようです。
わたくしの知っている話を一つ紹介します。最近映画にもなったので、そこで描かれているかもしれません。最後の心中の相手だった、山崎富栄さんという方は戦争未亡人でした。女性一人で生きていくために、美容師としてお金をためながら生活していたそうです。
太宰治は山崎さんが貯めていた小金目当てにこれをたぶらかし、有り金を遊ぶために使い果たしたそうです。
お金がなくなった以上、もう用はなくなったのでしょうが、さすがに引け目を感じて手を切れずにいたらしいです。(それとも美容師としての給金が目当てだったのか)
山崎さんは太宰に献身的に尽くしたのですが、太宰としては、その愛情の重さと気のきかない言動にはかなり困っていたそうです。
太宰治の最後の作品といってもいい、「人間失格」のエピローグ近くに、世捨人同然となった主人公の世話をする老婆が出てきます。この老婆は全く気がきかず、主人公からも、作家からも、読者からも笑われる対象なのですが、これが山崎さんを戯作化したものだそうです。
自分 が最も大切にし、後世まで残ることを願い、また確信していたであろう作品のなかに嘲笑するかのように登場させる。これ以上の辱しめがあるでしょうか。
往年のジャズ・サックスプレイヤーにスタン・ゲッツという人がいました。
非常に心地よい音色と完璧な技術で繰り出されるアイディアに満ち溢れたアドリブをもった最高級のジャズ・ミュージシャンでしたが、アル中でヤク中で家庭内暴力で、麻薬欲しさに強盗までしたことがあるという中々の厄介者だったそうです。
そのスタン・ゲッツの評伝が最近出版されて、ジャズ・ファンとしても知られるタモリが雑誌に読後評を発表しています。そのなかで本当に美しいものの陰には必ず醜いものが隠れている、という意味のことをいっているのですが、これは太宰治にも当てはまることかもしれません。
考えてみると、このことは個人の話ではなく、人間の関わること全てに言えるのかもしれません。
平和の有難味を感じることが出来るのは戦争の悲惨を知っているからこそです。
悪い事をする人たちのニュースは腹立たしいですが、いい人間というのも、そういう人がいるから良く見えるのであって、皆がいい人間ならばそれは普通のことになってしまいます。
加えて、天国などというものが本当にあったとしたら、そうしてそこは正しい人間しかいない、人の悪口などはもってのほかのような場所だとしたら、極めて退屈な所ではないでしょうか。地獄のように退屈かもしれません。こんなつまらないところにいる位なら地獄に落ちたほうがマシだ、と思うくらいに。
人間の価値、あるいは人類の価値というのは、その善悪、美醜の振れ幅にあるのかもしれません。
小さくまとまった善人の方々。大変、申し訳ないですが、話をしてももつまらなそうです。
太宰治もスタン・ゲッツもろくでなしですが、同時に周りの人達に愛された人たちでもありました。
美しいことも醜いことも、いいことも悪いことも、それを実現させるためには生命力が必要です。その人の魅力とはその人にどれくらいの生命力があるのか、ということかもしれません。
美醜、善悪の振れ幅が大きい程、私たちは魅力を感じてしまうのかもしれません。生命力があるほど魅力的というのは、当たり前といえば、当たり前です。
【生命力の話でいうと、男性も女性も、若い頃は服装も目立つものを着がちです。当然、周りに対するアピールであり、挑戦でもあるわけです。生命力に満ち溢れているわけです。それが、年齢を重ねるごとに、地味な色の服に変わってきます。これはもうアピールや挑戦をする生命力は尽き果て、人生の現役を降りたという合図であります。うまくしたもので、街を歩いていても、私を含めてそういう降りてしまった人はもう、たとえ見られていたとしても、他人の意識には入らなくなります。目もくれられないというやつですね】
私たち人類の歴史というものも、中々に振れ幅があり、生命力に満ち満ちていて魅力的なものです。
美しいものと醜いもの、高貴なものと、ろくでもないもの、有頂天でいるものと惨めなもの、優しいものと残酷なもの、いいものとわるいもの。その全ては必要で意味があるといったら言い過ぎでしょうか。勿論、個々の事象に触れれば、感動することもあるし、腹が立つこともあります。何故このようなことが起きなければいけないのか、と思うこともあります。しかしながら、やはり、この世の全てのことには、意味があり、価値があることだと思います。
あまり関係ないかもしれませんが、帝政ロシア時代の文豪ドストエフスキーには仲の悪い隣人がいたそうです。それでいうには、「私は全人類を愛する気持ちを持っていることには誰にも負けていない自信がある。しかし、隣の親父は嫌いだ」