ナチスでの事例が典型的なのだが、個人では善良である人でも組織の一員として、組織の仕事としてでは冷酷なことができる。
これはナチスに限らず、現代日本で銀行員、商社員などでも一般的に見られることだ。
何故こんな事が起こるのかずっと不思議だった。何が構造的な間違いがあるのではないか、と思っていた。
タレントの性加害から始まったフジテレビの疑惑の中で、関係者の人でなし振りを非難する発言を読んだ。
それを読んで、改めて上記したヒトの性質を思い浮かべ、またその旨を発言者に返信もした。(Twitterだったので)
しばらくして気が付いた。
善良である人が組織人としては残虐なのは、何かが間違っているのではなく、目的があってそうなっているのだということに。
話を組織、すなわち集団というものが生まれた時代に遡らなければならない。
当時は国家などというものはなく、人々にとって世界は自分とその周りの集団のことを指していただろう。
そういう集団がいくつもあると、そこには交流が生まれただろう。それが平和的なものであればいいが、場合によっては敵対することもあっただろう。ついには戦いにまで発展することも当然あったはずだ。
その時、勝つためには敵に対して容赦してはならなかっただろう。逆にいうと、敵に情をかけるような集団は敗北し、もしかしたら殲滅されたかもしれない。
つまり、集団に属する構成員が、外部の人間に対しては残虐になりうるというのは(集団をまもるためには同じ集団の構成員に対してでも残酷になりうる)何かの間違いではなく、生き残りに有利な戦略だったのだろう。
現代世界においてそれが問題視されうるのは今や世界は単純な集団同士の関係性だけではなく、集団の中に集団が含まれたり、あらゆる集団が国家という大きな共同体のなかに入っていたり、更には国家同士の関係性に対しても、それを客観的にみる別の国民がいて、それなりの発言力があったりするからだろう。