私たちは殴られたり刺されたりすると痛みを感じる。
これは勿論、痛みという不快さを感じさせることで痛みの原因を回避させるためだ。
もしも痛みを感じることが無ければ、私たちは体を痛め付けることに無頓着になってしまうだろう。
胃に食べ物がないと空腹を感じるのも同じ理屈で説明できるだろう。
もしも、空腹を感じることがなければ私たちは衰弱して死んでしまうことになる。
実際、食べ物を獲得するというのは大変なことである。空腹感という不快感がなければ、それを無くしたいという切迫した思いがなければ、食べ物を獲得しようとするというような大変なことはなかなかしないだろう。
つまり、私たちの感じる不快感というものは、いずれも我々をそこから抜け出させるためにそう感じるように出来ているのである。
これは、痛みや空腹に関しては納得できる考えだろう。
ところで、私たちには痛みや空腹など身体的な不快感以外に、精神的な不快感がある。
例えば怒り、というのは何らかの不利益な状況に追い込まれた時に、そこから抜け出す力を与えるための感情だろう。
その他に、私たち自分を不幸だと思ったり、他人を妬んだりすることがある。
これにも何らかの意味があるはずだと思えれば、そういう嫌な感情を持たせることによって、その状況から抜け出させようという自然の操作なのだ。
別の言い方をすると、自分の状態に対して厭な感情を持っているというのは、そこから抜け出しなさい、抜け出すために努力しなさい、という印なのである。
だから、こういう負の感情というのも私たちに必要なものなのだ。
ただ残念なことに、空腹を満たそうとする行動がいつも成功するとは限らず、場合によっては餓死してしまうことがあるように、不幸から抜出そうとする努力が常に報われるわけではない。
結局のところ、私たちにそうさせているものは、多くの個体に努力させることにより、それに成功する個体を増やすことが目的なのであり、私たち全員を幸せにすることが目的というわけではないのだ。
《一つ言っておいたほうがいいだろうことがある。こういう利いた風なことを言って、お前はさぞかしお偉いのだろう、と思われるかもしれない。それは全くの勘違いであり、恵まれている人がこんなことを考えるわけはないのだ。不幸グループにいるからこそ、色々とグダグダと考え、こういうことを思いつくのである》
それでは、努力の甲斐もなく、もしくは努力しなかっために不幸に甘んじなければならない者たちはどうればいいのか。歯噛みしながら窮死するしかないのか。
いや、今述べたことが理解できれば、少なくても幾らかの慰めにはなるだろう。それで努力して人生の勝利者を目指すも良し、適当な所で満足することにするのもいいだろう。
仏教の流儀でいうと、足るを知る、ということになる。無いものを数えるのではなく、持っているものを有難いと思う。
仏教というのはそれによって負の感情を無くさせて心を平穏に保たせることが目的の教えなのだろうから。
ただ、そうは言っても生活が出来なければ仕方がない。しかし幸いなことに仏陀の時代と違い、現代日本では多くの人は衣食住は確保できている。だから後は心の持ちようということになる。
《当然何らかの事情で生活が確保できない人、また、今はできていても老後はわからないという人は多いだろう。いくら世の中が豊かになったといっても、それに取り残された人にとっては世の中の豊かなどは意味のない》