世の中が成熟すると個人が活躍する余地が少なくなる。個人の能力よりも、システムで世の中を動かすようになるからだ。
それでも自らの名をあげたい、という個人の欲求が少なくなるわけではない。そうすると、行き場を無くしたその欲求は、公共の利益とは関係のない個人的な欲望に向かうことになり、すなわち政治家は腐敗する。
そのような時代には、政治にたずさわる人たちは、特別なことは何もしない、下手に動かない、ことが重要になる。いわば、「善良な管理者」であることが正しくなる。そう考えると、現代、政治家が尊敬される存在ではないことにも意味が見えてくる。
皆に尊敬されるような存在では何か人々のためになることをしなければならないのではないのか、という野心、プレッシャーにとらわれてしまう。要するに、それが必要とされる時代と、そうでない時代があるということだ。
政治に対する典型的な批判に、対応が後手後手にまわっている、という文言がある。
しかし、政治というものは本質的に起こったことに対するリアクションであるので、後手にまわるのは当たり前のことだ。
「先見の明」などのある人は限られており、そんなものはいれば儲けもの、いなくて当たり前くらいに考えないと、大きな事を言う、いかれた支配者を支持するはめになる。そうなった時には大きな代償を払わなくてはならない。
では、今はどうなのだ、というのは難しい問題だ。人は同時代のことを正しく判断できるものではないのだ。だから、くり返しになるが、それが出来ている、と訴えている人には注意しなければならないのだ。