時事その他についての考察

日本の労働条件が改善しないのは何故なのか

先来、言われているようなグローバル化による格差拡大も一因であろう。

最近急に言われ出した、円安による日本全体の購買力の低下ということもある。

しかし、根源的な要因は人々の権利意識の低さと、それを(意識的に、又は無意識に)利用している支配層の怠慢にあるのではないか。

本来、質が良く、かつ、売れているものは高く売られなければならない。

日本にもそういうものは勿論ある。アニメーションはその代表だろう。しかし、それに従事している人たちは劣悪な労働条件であると聞く。

売れるものをつくっている業種で働いている人たちは、本来、相応の報酬を受け取らなければならない。事は報酬だけのことではなく、労働時間の問題でもある。

相応の報酬を払っている業界には人が集まってくるものだ。それは国内だけでなく、外国からも集まってくるはずであるし、本来、質のいいものをつくっている業界であれば、そうならなければおかしい。

それなのに何故アニメーション業界の労働条件は劣悪だといわれているのだろう。

これは日本人の権利意識の低さに原因があると思われる。

高い技術を持ち、製品に人気のある人たちは相応の報酬を要求すべきなのだ。

外国、特にヨーロッパの先進区域では人々の権利意識が高いように見える。

例えば、我々の仕事のなかには盆や正月も働かなければならない職種がある。入院患者を受け入れている病院などだ。

これは日本では、皆で調整しながら欠員が出ないようにするのだろう。それでもなかなか人が集まらない時は現場責任者な大変な思いをすることになる。

休みをとることは我々の権利である。そうして、基本的にはいつ休みをとるのかということも権利の内に入っている。

「皆が一斉に休んでしまったら、誰が患者さんたちの面倒を看るのだ」というのは経営責任者の負うべき問題だ。現場が背負わなければいけないことではない。

日本的労働環境にいると結局、現場がやるしかない、と思いがちだが、本当にそうなのだろうか。

現実には調整はほとんど現場で行われている。多くの場合、それに協力的でない仲間は後ろ指をさされることにもなりかねない。

ヨーロッパでどうやっているのかは知らないが、勿論、本気で考えれば対応策はあるはずだ。

例えば休み期間専門の働き手がいればいい。そういう人を斡旋する会社や仕組みがあればいい。

正月などで、通常業務に携わっている人たちが休む時にそういう人たちに代わって働いてもらえばいいのだ。

そんなことを言っても、現実にはその現場現場の事情などがあるので、今日入った人がすぐに戦力になるわけではない。といわれるかもしれない。

それは、実は、そういう職場は代替要員を受け入れる体制が整っていないというだけのことだ。

それがいかに細かいことであっても、基礎的な技術を持っている人であればそれを見ればわかる、という適切な手引き書を作る思想が無いというだけのことだ。(勿論、例外的なことはあるだろうが)

そういう仕組みが無く、現場がすべてを被らなければならないのならば、相応の報酬が支払われてしかるべきだ。それは冗談のような割増手当などであってはならない。

これは何を言っているのかというと、こういうことを自覚しない限り、いつまで経っても条件は良くならないということを言っているのだ。

最近は始業時間は絶対なのに、終業時間はそれが過ぎるのが当たり前だ、という風潮を疑問視する意見をよくみる。本当はそれだけでなく、単純な工事での作業や飲食店での接客、スーパーのレジ打ちといった時間で区切ることのできる仕事であれば、職場に着いてからの着替えなどの準備、さらに言えば通勤時間だって仕事の内であり、報酬が支払われて当然という考え方があってもいい。(こういうことを言い始めるときりが無いのでそうであるべきだ、とまでは言わないが)

我々日本人の権利意識の低さ、それはやはり自ら権力を勝ちとったという経験、わかり易い例で言えば革命が無かったからだろうか。

革命ほど極端ではなくとも、人民が権力者を倒した経験がないと人民の地位がなかなか上がらないのは理解できる。すなわち、我々日本人は権利を勝ち取る方法を知らないのだが、それは方法を知らないというよりも、権利そのものの存在を知らないのかもしれないのだ。

以上、好きなことを言ってきたが、勿論、すべての物事には良い面と悪い面がある。

権利に対して自覚的なヨーロッパの人々のなかで、特にフランス人などはことあるごとに暴動を起こすイメージもある。

そこまでいかなくても、常に権利意識を研ぎ澄ましており、自分の権利が侵されたと感じた時には態度が豹変するなどとというのは日本人には似つかわしくは無いという気もする。なんといっても、おだやかな一体感というのは日本の強みでもあるのだ。

それでもこの文を綴ってきたのは、日本の現状はとても贅沢なことであり、これからは許されないことなのかもしれないと思うからだ。

これから更に国だけでなく個人個人も諸外国と深く接しなければならなくなるのだろう。その時に日本的な人間関係の常識にとらわれてしまっていては勝負にならないだろう。(何故かというと、ゲームのルールそのものが外国の作ったものだからだ。もしも日本が強大な力を持っていて、世界中の常識や慣習が日本のものならば日本人も日本人のままでいいのだが)

また、これはただの僻みかもしれないが、国や企業はそういうルールを個人よりも早く取り入れており、日本的な慣習のままで過ごしている個人をたぶらかしているような気がするのである。

しかしながらこんなことは長い時間をかけて少しずつ直していけばいい。できれば日本人の良いところをあまり壊さずにそれができれば尚いいのだが。

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