現在の日本においては、政権を担える政党は自由民主党しかない。
従って選挙において我々ができることは自民党政治に賛成票を投ずることか、(政権交代を望まないまでも)、自民党を牽制するために他党に投票することしかない。
これはやはり異常なのではないのか。こんなことでは日本は民主主義国家であるとはいえないのではないか。
こうなってしまっている大きな要因は、“団塊の世代”と言われる人たちの片寄った考え方にあるのではないか。
国民が政権与党を選ぶことが出来るためには、政権を担えることができる政党が二つ以上なければならない。
本来、その二つ目の政党の役割を担うべきなのは、かつては社会党であり、今は立憲民主党であろう。
しかし、かつての社会党にしろ、現在の立憲民主党にしろ、到底政権を担う能力があるとは思えない。
その原因が何かというと、それらの政党の源は実質的に反権力でしかないからだ。
自分で自分を批判勢力でしかないと決めてしまっているのだ。そもそも政権を持つ覚悟に欠けているのだ。
反権力は正に団塊の世代の旗印であり、はっきりいって唯一の心の拠りどころであり、プライドであるのだろう。
それを改めて思い知らされたのは何年か前に村上春樹がイスラエルかどこかでやった“壁と卵”とかいう受賞演説だ。(ちゃんと調べろ、という話もあろうが、その必要もないだろう。また、私は村上春樹の読者であって、それを否定する者ではない。ただ、彼のいかにも団塊の世代、という傾向は否定する)
それは、“権力という壁があり、それに対する民衆の力はせいぜい卵程度のものだとしても、自分は卵の側に立つ”、という意味の演説であった。
驚くくらい、自らの存在基盤が反権力にしかない、といことを表明している。
村上春樹ほどの人がこんなんなのだ。(もしかしたら能力や責任感が高い故にそうなってしまってあるのかもしれない)しかも、彼は海外生活も長く、知見も誰よりも広いはずなのに。
日本ではそういう、団塊の世代やそれの後継者たちの支持を受けている、反権力を唯一の存在理由とする政党が長く第二党の地位に居続けていたし、今も同じだ。
《勿論、戦後すぐの社会党の支持基盤や存在理由は違う。しかし、それはいつの間にか反権力の一言に収斂してしまった)
小沢一郎氏は、実質的な自民党独裁が選挙制度にある、と考えて小選挙区制度を導入したのだが、そうして、確かに一度はその読みが当たったとも思われたのだが、そこにはもう一つ大きな問題が残っていたのだ。