時事その他についての考察

罪に対する罰が曖昧なことについて

※以下、事実確認はしないで書くので各所で大きな間違いがあるかもしれません。(あったらごめんなさい)

※しかし、言い訳だけでもなく、情報は、その意見みたいなとこだけでなく、一見客観的な数字などの正誤の判断さえ受けとる側にも責任があると考えます。少なくとも受けて側もそう覚悟していないと自分が損をします。

※これから書くことは、いくつかの段階に分かれます。その都度わかるようにするつもりですが、少し分かりにくい文になるかもしれません。

国家公務員の方が、利害関係のある私企業から接待を受けたことが問題になっています。

全体が茶番なのですが、どういう茶番なのかということと、茶番にも理由があるはずだという話です。

まず、そこに罪があるというならば、それに対する罰則が決まっていなければなりません。それは刑事罰でも民事でも同じです。

そうして、罰を終わらせた者にはその罪も終わったものと見なされなければいけません。

違法だか、不適切なだけなのかの接待が罪であるならば、それに対する罰は決まっていなければいけません。それが法治国家というものです。罰が曖昧なのは「お前の誠意を見せろ」みたいなことで、堅気のいうことではありません。

罪に対して“自主的に”減俸をするなどというのはやってはいけないし、やらせてもいけない、根本的に間違っていることです。

罪を犯した人は、決められた罰則以外の、マスコミや私たち一般市民の批判などからは守られなくてはいけません。もしもどう考えてもマスコミなどの主張が正しいと思われるのならば、それは罰則が適切ではないのでしょう。その時は罰則を変えなければいけません。しかし、勿論、変わる前に犯された罪は変わる前の罰則で裁かれなければいけません。

以上が原則で、しかも当たり前のことです。それが無視されているから茶番と申し上げているのですが。

さて、では国会での野党の態度は間違っているのでしょうか。

これに対しては二つ、解釈ができます。

一つは、国会では与党と野党は敵同士であり、敵を攻撃し、弱められることをするのは当然。それが原理的には的外れなものであっても、世間がそうみなければ利用できるしするべきだというものです。

それに対して、与野党双方そんなことをやり続けていては、国会のレベルが下がるだけで、それは政治に対する軽蔑をあおることなり、長い目でみれば与野党、国民、皆が損をするものであるのでやるべきではない、とも言えます。

私としては二つめの立場をとります。ではそれに乗っ取れば今回どう対処されるべきかというと、接待を受けたという罪に関しては国会が関わることではないことを示します。しかるべき機関が対応するべきことです。当然、謝罪などは求めません。許してもいけません、“ここはあなたが自分の都合で弁明に使っていい場所ではない”と言うべきです。追及するべきなのはその接待に実際にどういう効果があったのか、何か公務に影響があったのか、ということです。証拠などはないでしょうから、そのなかでどう事実を明らかにするのかは腕次第です。

さて、では何故罪とそれに対する罰が曖昧なのかということです。これを考えるには歴史や社会から考えるやり方もあります。法の成り立ちやその実践、どこまでがきっちりしていて、どこからが曖昧なのか、それすら曖昧なのか。しかしこれを調べるのは大変そうです。

私たち一般人にもできるやり方は、自分の心を探ることです。少なくとも私は何でもかんでもきっちり決められると窮屈に感じます。だからといって、曖昧がいいとも思えませんが、大多数の人が同じように思っていたら社会の規範や法もそれを反映したものになります。

何故曖昧を好むのかというと、絶対の真理などというものは無いとなんとなく知っているからでしょう。モラハラ、セクハラ、虐待などなど、罪とされることが変わっているのは良く見かけます。

《それはもともとあった罪が私たちに意識されていなかっただけだ、と言われる方はおられるでしょう。そこに労力を取られたくないので反論しませんが》

ざっくり言うと、絶対を否定するのが東洋で、そこに神を入れることで強引に絶対をつくったのが西洋なのでしょう。

現在の世界標準は西洋のものなので、無い絶対をあるような振りしなければいけません。そうしないと損をしてしまいます。

しかし無いものは無いのです。この辺りから西洋的価値と東洋的価値の大きな転換、逆転が起きる気もしますが、そこまでいくと話が大きすぎてしまいます。

《話は戻りますが、曖昧が正しいのなら茶番とは言えないだろう、とはならないと思います。私程度に見透かされ、否定されるようなものはすぐに直すべきです》

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