《民主主義の“教義”はキリスト教の教義と位置付けとしては同じと考えていいのではないでしょうか》
おそらく、多くの日本人が同じ感覚を持っていると思いますが、欧米諸国が他国に民主主義を強要するやり方に全面的に賛成することは、感覚的にできないのではないでしょうか。
私たち日本人も、一応、民主国家と言われる国に住んでいます。そうして、(おそらく大多数の人たちは)これからも日本は民主国家であり続けて欲しい、と思っているでしょう。
同時に、他の、民主的とは言えない国々もそうなった方がいいのに、またそうなって欲しい、とも思っているのではないでしょうか。
しかし、だからといって、欧米がやるように、他国に強引にそれを強要しよういう気持ちにはならない、なれない人たちが多い気がします。
その国の民衆の大部分が民主化を求めて国と対立しているであろう時はまた別です。 (国家ではありませんが、例えば香港)
その場合は、なるべく民主化を手助けしたいとは思います。しかし、それでも欧米がやるように、制裁を加えたり、強い言葉で政府を非難するのには躊躇してしまいます。実際に日本政府がそのような時にあやふやな態度をとるのは、必ずしも国益などを冷静に考えた結果ではなく、そうすることに確信が持てないからでしょう。
では何故欧米諸国は民主的でない国家に対して、人権の名のもとにあれほど確信を持って攻撃することができるのか。
彼らのそういう態度は我々は以前にも経験していないでしょうか。
ありますよね、やられましたよね。これは日本でいうと、戦国時代、安土桃山から江戸初期にかけてのキリスト教の布教活動と同じ精神、論理から起きていることではないでしょうか。
キリスト教の布教活動を彼らは確信を持って、正義の名のもとに行いました。
そうして、今は民主主義という思想を確信を持って、正義の名のもとに広めてようとしています。
これが偶然であるはずがありません。関連がないはずがありません。
どうも、やはり近代民主主義の根底にはユダヤ教とキリスト教があるらしいです。
西洋での、人は皆平等である、という民主主義における前提であり、絶対的な教えは、一神教という絶対神の支配下では人の間に差はない、すなわち平等だ、というようなことから来ているらしいです。おそらく、福沢諭吉の「天は人の上に・・」という字句はそのことをさしているのでしょう。
平等であるからには、何かを決める、すなわち政治、を行うのもみんなでやるものだ、ということになり、それはつまり民主主義です。
ただ、東洋には仏教があり、その中心教義らしい、「生物にはすべて悟りをひらける素質がある」というのは、話を進めれば自然に、だからすべて生物は平等だ、となるものです。
(少なくとも日本で)平等思想が割合に、自然に受け入れられたらしいのは、そういう下地があったからでしょう。ただ、結論が同じなので、西洋のそれが絶対神の思想がもとになっていることに気付ける人はとても少なかったのです。
欧米人にとって、キリスト教の布教も、民主主義を広めることも同じことだったのです。
日本の民主主義が徹底していないのも、中国が民主化しないのも、イスラム諸国が民主化しないのも、それら諸国はキリスト教を根底にしていないので当然のことだと言えるのではないでしょうか。
そうではあっても、日本がそうなったように、強引に民主化できないわけではありません。ただ、民主主義諸国がそう考えるよりは難しいということでしょう。特に、イスラム諸国は宗教的にキリスト教と対立しているので相当、困難なものになりそうです。