時事その他についての考察

民主主義はその分岐点に来ているようです。これを乗り切るためには

まず問題なのは、政治に対する不信感が蔓延していることです。

理由は勿論、いくつもあるでしょう。まずは「選挙で政党を選ばなくてはいけないが、一部の政策に賛成してその党に投票するのだが、政権を取ったらそれ以外の、賛成していない政策もやられてしまうこと」に注目します。

古代ギリシャの民主制では、個別の政策課題のそれぞれで市民たちが議論することも出来たのでしょうが、現代社会では、政権与党は、その名の通り、(次の選挙までは)政権を与えられているので、それまでは基本的に自由に政治を行うことができます。

《勿論、国会での論戦、世論の動きなど、無視はできませんが、それを気にするのは次の選挙に勝つためです。それを気にしなければ、かなり自由です》

彼らは「選挙で信は得られた」などと言いますが、その掲げる政策すべてを支持した人はそれほどいないでしょう。

次に格差が広がってきているという問題があります。

社会は競争である以上、格差があるのは普通で自然なことですが、それが度を過ぎると問題だ、ということです。これは、下層の人たちにとっていけないだけでなく、上層の人たちにも良いことはないのです。しかし、格差が広がる、縮まる、というのは、その時々の社会環境で決まることで、これを政治の力だけで矯正することは難しいことです。

《下層の人たちの力が多く必要になる、例えば戦争が起きると格差は縮まります。力の無い人たちは使い捨てしてもいい社会ならば、格差は広がります。(今がそんな感じでしょうか)冷戦の時代は、良く言われるように、共産主義に対抗するために累進課税が所得の低い人に有利に決められ、社会保障も充実される傾向にありました》

今、格差が広がっているのは、何よりも、国家間の敷居が低くなって、商売相手が国内だけでなく、世界になったからでしょう。成功すれば、その成果は国内だけを相手にしていたときと、世界中で売れるときでは文字通り、段違いになるのは当然です。その利益を従業員に回す必要は、それほどはないのですから、経営陣や株主の利益が突出するのは当たり前のことです。

《本当は、格差があっても、それが生活の良し悪しなどで止まっていれば構わないのです。問題は、お金が権力となって、政治とつるむことにあります》

次に、慢性的になっている、国家の財政難があります。

民主主義の政治家は選挙でえらばれる以上、選ばれる為に我々有権者の歓心を買う政策をとり、次の選挙に備えるというのは自然な行動です。そうして、我々有権者は、結局は自分の得になることを喜び、それをやってくれる政治家、政党を支持するものです。そういう、誰かが得をする政策を行うにはそれなりにお金がかかるのは当然のことです。増税など、お金を取る政策は不人気で、お金を与える政策は人気があるのですから、人気が大切な民主主義国家の財政が常に厳しいのも当然のことになります。

《ついでですが、私たちの利益に反する政策をする政権、(例えば消費税の増税をする政権)を非難する言説に人気が出るのも当然です。特に、その論理に根拠がありそうな時には、それ見たことか、その通りだ、などと誉められるでしょう。これはですから、書く側から見れば、そういうことを書けばウケる、売れる、儲かるということです。ですから、私たち自身が喜ぶような言説があれば、どちらかといえばそれは疑ってかかられるべきです》

そんなものは思い付きに過ぎないと言われてしまっても仕方のないものですが、少しなりともそれらの問題を改善できる方法があります。

やってもらいたい政策を有権者側から提案して、それにかかるお金も有権者が出す、という仕組みを作ることです。

これは、慈善事業などの寄付を公の形にしたものであり、政治に圧力をかけるために使うお金を直接の政策に回すものでもあります。

具体的なやり方や、そもそもそんなことが出来るのかも全くわかりませんが、どちらにしろ、国家の力は弱くなっているのではないか、というのが発想の発端です。

この提案は、国家が独占している、税金を集める、政策を実行する、という権限を一部、奪うことなのです。

もしもこれが実現すれば、有権者は政権与党がやってくれない、しかし本人たちにしてはやって欲しい政策が実行されることで、直接の政策的な望みが叶えられます。

当然、お金持ちのほうがより、多くのお金を出すことになりますから、いくからなりとも格差が解消されます。

国の財源を使わずに政策ができるのですから、国家財政の助けにもなります。

と、良いことばかり言っていますが、当然、問題はいくらでもあります。それは、もしもそんな制度をつくることが出来たとしても残ることです。

何といっても、国家財政と個人や会社の予算ではその規模が違いすぎるということがあります。

本来、税金を使ってやるべきことを別に出してもらうわけですから、中流以下の人たちが多く出すわけはありません。そこで、中核になるのはお金持ちですが、お金持ちたちが仮に一億、二億ずつ出したとしても、お金持ちというのは数が少ないので、集まる総額はそれほどでもないでしょう。(実際には、イメージ戦略も含んで、企業が主な担い手になるでしょうが)何しろ相手は国家予算なのですから。

ですので、この案は駄目かもしれません。しかし、何らかの方法で制度を変えなければ立ち居かないまでになっているのではないでしょうか。

その際には、上でも提案したように、国がその持っている国家権力を一部、手ばなす位の改革でないといけない気がするのです。

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