時事その他についての考察

映画「パラサイト」を観る。何故民主主義社会で格差が起きてしまうのか

映画のテーマはやはり格差社会なのでしょう。

《以降いわいる、ネタバレが含まれます。多分、皆さん思っていらっしゃると思うのですが、映画でも、小説、ドラマでも、感想や批評に、その内容が触れられているのは当たり前です。それがいつからか『ネタバレがあります』などと断らなければならなくなってしまいました。

しかし、これも平和の代償の一つなので仕方ありません。戦争の原因の一つは、社会の歪み、ひずみです。戦争によって、その歪みが正されることもあります。戦争は絶対悪と言えばその通りです。しかし本当の問題は、戦争そのものにあるのではなく、その破壊力が異常になってしまったことにあるのです》

これだけ評価の高い話題作なのですから、しかるべき人たちがしかるべく批評をされているでしょう。

ですから、ここでは2つ指摘するだけにします。

家族の住む半地下の部屋が豪雨でほとんど水没したあと、親子3人は体育館に避難します。何もかもびしょぬれのはずなのに、乾いたきれいな服を着て寝ています。

そこでそれぞれが次の日のパーティーに呼ばれます。

荷物など、持ってくる余裕もないまま避難しているはずですし、もしも持ってきていたとしてもびしょぬれでとても次の日に着られるような状態では無かったはずです。

しかし、少なくとも子ども二人はそれなりの格好をして出席していました。(父親はスウェットのようなものを着ていました。雇い主の家に行くのにこれも少し変です。単に韓国の国柄なのか、作り手の何か意図があるのかわかりませんが)

もしかしたら、この場面を現実的ではないとして批判する人がいるのかもしれません。

しかし、映画などフィクションにはいくらかなりともおとぎ話の要素があります。話のテーマを、より効率的、効果的に伝えるためにこの位の強引さは全く問題ありません。但し、やり過ぎるとご都合主義になってしまうので、それは製作者と視聴者両方のバランス感覚が大切なところです。

映画の終盤、惨劇が終わり、主人公が脳手術を受けたあと、後遺症で、何を見ても聞いても笑い続けるようになってしまいます。これは、この話は悲劇のようで喜劇としてしかとらえようがない、というメッセージだと思います。そうして、喜劇としてしかとらえられない、ということが真に悲劇的であると言いたいのだと思います。

映画を観た限りでは、韓国社会の格差は日本よりさらに深刻なようです。

そこで、改めて格差社会について考えました。何故、多数が力を持つはずの民主主義にその多数が下層に沈むという深刻な格差が生まれてしまうのか。

国民というものは、大多数は金も力もない人たちです。

民主主義というのは、しかし、物事が多数決で決められるものです。そうであれば、力のない、しかし数は多い者たちが、お金や権力を持っている少数の人たちよりも強くなりうる制度だと思ってしまいがちです。

しかし、実際は人々には情報が制限され、適切な判断ができる材料を与えられないまま、また個々人の判断力が乏しいがゆえに権力者に丸め込まれてしまいます。

本当は、民主主義というものは、多数派の弱者のためのものではない、という話があります。

正しいのかどうかではなく、利害が対立する人たちの意見をまとめるために、決定は多数決でするようにしよう、とした制度です。その利益団体が政党のはじまりだというのです。

ちゃんとした裏付けがあるわけではありませんが、ここでいう“利害が対立する人たち”に、いわいる下層階級の人たちが入っていたわけはありません。

つまり、それまで世の中の実権を持っていた人たちが、利害が対立したときには戦争など力で決着をつけていたのを、言論と、最終的には数の多寡で決めることにしたのが今、民主主義と呼ばれる制度なのでしょう。(意見が対立したときに、いちいち命がけで戦争をするのが嫌になったのでしょう)

どういうことかというと、権力を握っているのはごく一部の人たちだという構図は変わっていないということです。ルールが変わったのは社会の上層部の間だけのことで、それ以外の支配されている階級には関係のないことだったのです。実際に民主主義が生れた時、選挙権はごく一部の人しか持っていませんでした。

はっきりいって、今行われている普通選挙というものは建前です。では何故そう言えるか。

民主主義とは、各々が自分の利益を主張するのを調整するための制度であるといいました。これは具体的には、自分の利益を代弁してれる人を選挙を通じて選ぶ、ということになります。

どういう政策が、誰を選ぶことが自分の利益になるのかを判断するのには、情報が必要です。

情報には、代表者に立候補している人が、どういう政策を訴えているのか、その政策が実行されたら世の中は、自分の暮らしは、どう変わるのか、更には今現在はどういう政治が行われていて、それは誰がどういう思惑でやっていることで、それによって世の中がどう成り立っているのか、自分の生活の基盤はどうなのか、安泰なのか、不安定なのか、それは変えられるのかどうなのか、などというあらゆることが含まれます。

さて、そういう情報は私たちに知らされているでしょうか。政治家や官僚、大企業の役員、マスコミの上層部などが独占しているのではないでしょうか。

それでも、それ以外の人たちにも、その一端を知る方法はあります。何といっても情報社会ですから。

しかし、方法はあっても、その情報を読み解く能力を持つものは、少数しかいません。(ぼくもできません)

言い換えれば、その少数は、権力を動かす上層社会の一員に埋まれた食い込むことができた人たちとも言えます。

では何故その少数者以外の大多数はそこにたどり着けないのでしょうか。

それは、もしも情報が与えられても、それを読みこなして解釈する知識や能力がないからです。

もともとそういう能力に欠けている人もいるでしょうが、(それは人間として必要な能力のごく一部に過ぎないので、その能力がないからといって、必ずしも劣った人とは言えません。念のため)教えられれば出来るはずの人でもそれができないのは、教えられていないからです。

近代社会には立派な教育制度が整っているのにも関わらず、それが教えられていないのは、その立派な教育制度は、そんなことを教えるためにあるものではないからです。

現代につながる近代的な教育制度は、プロイセンが近代的な軍隊をつくるために始めたものだと言われています。(それが成功を納めたために、他国も取り入れたわけです)

近代的な軍隊では、命令通り、規律をもって行動できる兵士が必要です。その規律を叩き込むために近代的な学校がつくられた、というのです。

時代が下って、学校の役割は、兵士を養成することから、近代社会で働くことのできる規律や忠誠心をもった労働者を養成することに変わりました。(就業時間通りに出勤することだって、決して当たり前のことではありません。それがあたかも当たり前のように思えるのだとしたら、それは教育によってそう思わされたからです)

学校というものは、それが出来る立派な器がはあるのにも関わらず、国の根幹にかかわる情報を扱う知識や技術を教えるつもりはもともと無い、ということです。

それを持てるのは、そういう家柄に生まれて、初めからそういう教育を受けてきた者、優秀な成績で高等教育を終えて、上層部の情報に触れることの出来る組織的の一員となることを許され、さらにそのなかで出世することが出来た者、または、独学もしくは仲間内で独自に学ぶことができた者たちです。

私も含めたそれ以外の大多数は、表面上の情報しか見えずに、自らのためになる判断ができずにいるのです。

しかし話はこれで終わるわけではありません。

確かに私たち一般大衆は無知ではありますが、だからといって、丸め込まれているばかりではありません。

時には爆発的は流れに乗って、時には本能的とも思える洞察をもって世の中を変えることもあるのです。

また、上層部の人たちも、自分で思っている程にに優秀なわけではありません。間違ってばかりいます。(これについては別途、考えたいと思っています)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。