時事その他についての考察

多様性を訴えるなら一見自分に不利益になることも受け入れるべき

いわいる性的マイノリティや女性の社会進出などは認められるのが当たり前のことで議論の余地のないことです。(ここの説明は長くなるし、本論から外れてしまうので、反対の方も一旦そう思って下さい)

それらは一般に多様性を認めるという言葉で言われたりします。

ところで、これは近年目立つ、清潔への異常な(異常と言わせてもらいます)執着、昆虫をやたらと怖がること、反社会的とみられる人たちの排除の仕方などと矛盾しているのではないのでしょうか。

多様性を認めるのであれば、それらに対して適切な目配りがあってしかるべきです。

多様性を尊重することを定義するならば、存在するものを認めること、それが存在する意義を理解することだと思います。そうしてそれは、一見、悪いものだと言われていることにも当てはめるべきです。

虫や細菌など、人間では無いものはまた、別だと言われるかもしれません。

法律に違反している者たちなどは認められるわけが無いと言われるのかもしれません。

人ではないものは対象にならないというのならば、犬猫はどうでしょうか。現代社会は動物の権利を認める方向に向かっているように思えます。それは多様性の肯定の一環だと思われます。そうして、勿論それらは人ではありません。

人間が認め、好み、その利益になる生き物と、人間に害を与える生き物は違う、と言われるのかもしれません。しかし、その区別ははっきりとできるものでは無さそうです。

あなたもご存知の通り、人から嫌われる存在である蜘蛛は虫を食べてくれます。また、虫は鳥など、いくらか大型の生物の貴重な食べ物でもあります。すべて、自然や生物は繋がっているとはよく言われることであるはずです。

清潔志向には、近年アレルギーが増えていることが影響しているのかもしれません。

全くの推測ですが、乳幼児は病気に弱くなってきているのかも知れません。

最近の清潔志向はそれが原因であるのかもしれません。

確かに病気であればその直接の原因は病原菌です。しかし抵抗力が弱まってきているとしたら、それは病原菌に慣れていないからでもあるはずです。

《また、アレルギーが増えているのは、やはり親世代を含めた食生活や環境汚染に原因を求めるべきで、直接の原因と思われているものはきっかけに過ぎないでしょう》

病気になるから病原菌を排除する。するとヒトの抵抗力も自然と弱まるのでそれまでなら対応できていた少しの病原菌からも病気になってしまうようになる。だからさらに病原菌を排除しなければならなくなる。するとさらに抵抗力が弱くなり・・

人間は自然を完全にはコントロールできないし、してはいけない、というのは、近代が終わったときに私たちが学んだことのはずです。清潔に暮らすことは勿論、大切ですが、わけの分からない液体を噴射して清潔になった気になるなどということはお止めになったほうがいいのではないでしょうか。(アルコールでコロナウィルスを殺すことが間違っているなどと言っているわけではありません。念のため)

同じように、世の中から犯罪をなくすることは出来ません。無くならないようにできているのかも知れません。

そもそも何が犯罪かということも決まっているわけではありません。時代によって法律が変わっていくのですから、それに反することも変わっていきます。

例えば著作権に対する侵害。昔は著作権などというものはありませんでした。

よく言われることですが、戦争は人殺しを正しいことにします。

そもそも100パーセントの人たちが社会に対応できると考えることに無理があります。

対応しきれなかった人たちをどう処遇するか、できるのか。多様性や寛容が合言葉なのでしょう。その言葉に責任を持って頂きたいものです。

これは無理なことを言っているわけではないのです。私たちは、私たちの利益になるとしかできません。一見、他人のためにやっているように見えることも、全ては自分のためのことです。そうして、これらのこともきちん取り組めば私たち自身の得になることなのです。

害虫と言われるものに対しては、これを完全に無くすることはできないし、してはいけないのですから、撲滅するために膨大なエネルギーを使うよりも、共生する方法を探すべきです。

犯罪者に対してのことでいうと、例えば暴力団を排除しようとして、今どうなっているでしょう?

暴力団のいなくなった権力の空白部分に新しい暴力組織が入りこんだだけではないのでしょうか。

かつての暴力団は、警察などがある程度実体を把握できており、お互いに組織であることもあり、対応策もできあがっていたはずです。

しかし、今跋扈している暴力組織はその実体もつかめず、今までの取り締まり方が通用しないようです。これを押さえられるようになるには、まだ時間がかかるでしょう。

つまり、無理な排除をしようとして、状況を悪くしたのです。

これも、そんなことをしなければ状況はコントロールできていたわけで、余計なエネルギーを使っていることです。そうしなければ損失を出さずに済んだという意味では、策を間違えなければ得をしていたことになります。

性的マイノリティの権利を訴える人たちは、その主張は正しいでしょう。

けれども、その理屈を自分たちだけの都合にしか使わないのならば、権利を主張する資格はありません。自分たちを迫害しているものたちと同じことを自分たちもしているのですから。

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