《今から書くことは、この間テレビで観ただけの情報をもとにしているので、間違ったり、不十分なところがあるかもしれません》
どの程度の規模かはわからないのですが、今、小学校で、性的少数派に対する差別に反対する教育をしているらしいです。
テレビで18時位からやっている、ニュースとうたっている番組の中での1コーナーで紹介していました。
その中で2つの学校が取り上げられていて、1つは、男女共に名前を「さん」づけで呼ぶ決まりがあるとのことで、先生は勿論、生徒の間でも、呼び捨てなどではなく、あだ名なども禁止されているのでしょう、各々「~さん」と呼びあう姿が紹介されていました。
おそらく、別の学校だと思うのですが、いわいるLGBTQ差別に反対する(おそらく)授業(?)も紹介されていました。
5年生位に見える児童が滔々と、いかに性的少数派に対する差別が間違っているのかを、専門的な言葉まで駆使して、起立して発表していました。先生も誇らしげに見ていました。
わたしも性的少数派に対する差別に反対することには全面的に賛成します。そうして、その差別を防止するには、若年層からの教育が大事だということにわかります。
しかし、だからといって、差別に対して反・差別を持ってきて、教育の、しかも若年層の教育に使うというのは危険過ぎます。
これでは、正義対正義、差別対差別、主義対主義の争いになってしまいます。
うーん、こういう、なんからのイデオロギーに基づいた教育は失敗に終わるというのは、既に経験済みのはずなのですが。
それは、日本で言えば戦時中の小国民教育であり、同じく戦時中の話になりますが、ドイツで行われていたヒットラー・ユーゲントに対するものが良く知られています。
戦時中の教育は間違っていたけれども、これは正しいことをおしえているのだ、という主張もありそうです。しかし、その善悪は誰が判断するのでしょう。それは誰にも出来ないが故に、私たちは社会通念上で一般的に認められている正しさを教えることしか出来ないのです。
それでは、性的少数派を擁護する教育は出来ないのではないか、というと、そうではなく、偏見や先入観を与えないことが大切なのだと思います。
偏見や先入観は、子ども達だけでが自然に発見するものではなく、どこからか聞いてきたり、誰かの影響を受けて思い込んでしまうことです。
教育現場で出来ることは、そういう場面を見たり、偏見が持たれそうな兆しを感じたらそれを正すことぐらいしかないでしょう。
《確かに、差別や偏見というものには人を動かす謎の力があります。一度それが入り込んでしまうと、直ぐに広まって、人の心を支配してしまいます。
ですから、それを根気よく取り除くのは大仕事なのはわかりますが》
「さん」づけを強要する位ならまだしも、自分勝手なイデオロギーを教え込むなどというのは、全く教育に相応しくないことです。これは、子どもを実験に使っているとしか見えないことで、犯罪的といわざるを得ないことです。
全ての組織は中に入らないと実情というのは見えにくいものですが、特に学校というのは、その構成員が 子どもであるゆえに、周りからは見えにくい組織です。
文部科学省というのは、それをいいことに、好き勝手に振る舞っているのではないのでしょうか。もしくは、その下の組織がそうなのかもしれません。
教育の理想は、おそらくそういう組織にいる人たちであればよく知っている、J.D.サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」の中で示されています。
うろ覚えですが、それは「夢中になって、遊んだり、学んだりしている子どもたちが時々羽目を外したりして、危ない目にあってしまいそうな時がある。そういう時にそれを助けて元の安全な所に戻してあげる存在」それが主人公の少年がやりたいたった1つのこと、といった文で示されていたと思います。
サリンジャーが全く正しいというわけではないでしょうが、少なくとも自分の主義主張を押し付けるよりは、いいはずです。
《恐ろしいのは、そういう教育をしている人たちは、おそらく善意でそれをやっていることです。正義ほど怖いものはありません》