これは、日本だけではなく、人類一般に共通しているだろうことですが、我々はお金儲けを不純なものと考えがちです。
悪徳商人越後屋と悪代官を成敗することが絶対正義であると当たり前に思う考え方。これは、金儲けに対するもともとの嫌悪の気持ちが無ければ生まれにくいことです。
悪い商売をしているから懲らしめた、のではなく、私たちの心のどこかにある、儲けている者を懲らしめたいという欲望を叶えるための口実に、悪徳という設定をつくったのです。
そういう心情の影響として、自分を低く表現することが美徳であるという傾向が生まれ、一般的になりました。そのため、自分のつくった価値あるものにも正当な価値をつけられなくなってしまいました。
おもてなし、の心は素晴らしいものですが、優れたサービスには、それに見合った対価が伴わなければいけないという考え方もあります。
いいものを、より安く、ということが、商売の手段、ライバルに勝つための方法ではなく、道徳になったのです。
三方よし、という近江商人の信条、売り手によし、買い手によし、世間によし。という言葉が生まれ、生まれただけではなく、日本中に広まったのは、そういう下地があったからでしょう。
これはつまり、日本人は、世間、すなわち環境を大事にする意識が高いということです。
環境が整っていれば、自分もなんとかなる、だから、自分のことは、後回しでもいい。という考えが広く行き渡ったわけです。
これは、比較的争いの少なかった島国の、また、おおむね単一民族であることならではの長所です。待っていれば順番が回ってきたのです。
それに対して日本以外、世界の大部分では、何かを獲得するためには、戦わなくてはいけなかったのです。待っているだけだったら、いつまでたっても、何も得ることは出来なかったのです。
手間暇をかけてつくったものでも、顧客のためになるべく安く売る。これは、効率とか、生産性という思想とは、相容れない考え方です。
《バブル時代があった、その頃は日本の生産性は高かったといわれそうですが、それは、円が高かったから、ということもあります》
事は、国民性にも関わることです。でも、日本も世界経済圏に含まれているからには、もう、独自の国民性などは持てなくなるのかもしれません。効率重視の、生産性が声高に叫ばれる競争社会に、江戸時代末期の開国以来、ついに本当の意味で晒されているのかもしれません。
これは、良い悪いの問題ではなく、現実に直面している事実であるのかもしれない、ということであり、はたして私たちに、そのことに対する理解と覚悟があるのかということです。