気の持ち様ってことですね、要するに。
話はこれでおしまいなのですが、あんまりなので、少し続けます。
“神は乗り越えられない云々”というのは、気持ちのことを言っているのですよね。何かとても辛いことがあって、生きる気力を失ってしまった、とか。何も、百メートルを五秒で走らなければ命に関わる、などという、物理的なことを言っているのではない。
それが、気持ちの問題であるならば、乗り越えることは勿論、可能です。
面白いのは、「何でも気の持ちようだよ」と言われるよりも、「神は乗り越えられない試練しか与えない」と言われたほうがやる気が出そうなことです。
この辺は、言葉の寿命ということでしょうか。言っていることはおんなじでも、目新しい言葉のほうが効き目があるようです。
もう一つ、ここで言う神は、いわいる八百万の神ではなく、一神教のそれでしょう。
キリスト教などの、一神教を信仰しているわけでもない私たちがどうしてこの言葉に心を動かされてしまうのか。日本以外の、やはり一神教徒ではない民族の人たちにも、この言葉は響くのだろうか?
これは私にはわかりません。しかし、もしも、これが日本人特有のことならば、それは必ずや、神仏習合と関係することでしょう。
神も仏もいっしょくたに信じることができる、もしくはどちらも本当には信じていないのに、信じている気持ちになれる。そういう我々、日本人だからこそ、なんとなく、一神教を知っている気になって、なんとなく、少しは信じているような気になれるのでしょう。
これは、良いことなのかもしれません。芥川龍之介がいうように、神はいてもいなくても、どっちでもいいのかもしれませんから。(「侏儒の言葉」から)―青空文庫から、当該箇所を引用しようとしたのですが、みつかりませんでした。―