もしも、絶望したあまりに生きる意味というものはあるのかなどを考え始めたとしたら、そんなことはおやめになるべきです。
本来、そんなことは考える要の無いことです。腹が減るので食い物を確保する。それを食べる。寒くて凍えそうになれば、暖をとる方策を考える。異性に(別段、同性でも構いませんが)性欲をおぼえたら相手を口説く。うまくいけばよし、駄目なら他日を期す。眠くなれば寝る。
本来我々は、我々が必要とするものは欲望という形で、それをしたくなるように出来ています。
勿論、異常なほど豊かになった現代で欲望のままに行動してしまったらその身は破滅してしまいます。ですから、理性をもって、欲望を調整しなければいけません。しかし、根本のところは同じです。
それにもかかわらず、生きる意味などを考えてしまうのは、考えざるを得ないところまで追い込まれてしまっているからです。
ですから、考えなければいけないのは、生きる意味などではなく、そこからどう抜けだせるのか、ということです。
絶望から生きる意味など考えるのは、死ぬ理由が欲しいからでしょう。
生きる意味を考えることが無意味なように、死ぬ理由を考えることも、また意味の無いことです。
くり返しになりますが、死を考えるまで追い込まれるとしたら、それは周りが悪いに決まっています。怒りを持って、そのから抜け出す方法を考えるべきです。
ただ、思索として生命のある意義を考えることは、また別の話です。個人的には、これは倫理などではなく、科学で追求したほうが答えに近づくのではないのかと思います。