薩長同盟と大政奉還。この二つは、矛盾する政策です。
この、幕末の大きな二つの動きには、坂本龍馬が関わっていたと言われています。同じ人物が全く逆の効果のある仕事をした理由は私にはよくわかりません。途中で考えが変わったのか、別の何かがあったのか。
この二つの出来事のうちでは、どちらかというと、薩長同盟のほうが知られてもおり、取り上げられることも多くあります。
理由は明らかでありまして、薩長同盟は、その後の歴史につながる大きな意義をもつのに対して、大政奉還は、明治の維新が成功したことによって、その意義がなくなり、幕末の出来事のうちの一つという位置付けになってしまったからです。
ところで、この文章の主題は、本当に日本の選択肢は明治維新でなければいけなかったのか?ということです。
私たちは、当時西洋列強の脅威に対抗するためには、国の力を一つにまとめなければいけなかった、そのために、中央集権国家をつくる必要があり、だからこそ、明治の維新は必然だった、と教えられてます。
一見、これは確からしく見えます。しかし、世界の当時の情勢を少しでも見れば、列強の脅威というのは、既に無くなっていたのでは、と思われるのです。
日本進出を企てていた列強というと、米英仏露蘭でしょう。
この内ロシアとオランダは、その目的は貿易であって、領土に対する野心は少なかっただろうと思います。
オランダは、長いこと出島で交易をしていたよしみもありました。実際に日本に対して武力で脅したことは、少なかった筈と記憶しています。(他の列強と合同で、というのがあったとは思います)そもそも、日本を攻撃できるだけの国力があったのかも疑問です。
ロシアは、やはりロシアが本当の意味で脅威になるのは、シベリア鉄道が開通してからだと思います。それは、やはりというべきか、日露戦争の直前から、ということになります。(これは、日本本土に対する脅威の話です。中国東北部や、さらには朝鮮半島は、シベリア鉄道開通前でも視野には入っていたのかもしれません)
明治維新は1868年ですが、アメリカは、それより先、南北戦争(1861―1865)が起きてますので、既に日本どころではありません。
残るのは、英仏ですが、両国ともにロシアを相手取ったクリミア戦争で国力は消耗していた筈です。
また、両国とも極東での一番の目的は、当時の清です。もしも、日本が隙をみせたならばどうなったかはわかりませんが、まとまりを保っていられたら、日本ほどの規模と国力がある国に、あえて危険をおかして戦争を仕掛けることはなかったでしょう。
特にイギリスにとっては、最大の敵は常にロシアであり、実際に後に日英同盟が結ばれたように、日本を対ロシアの牽制もしくは尖兵に使うシナリオも常に考えに入れながら対日戦略は進められていたと思います。
これらは皆、後世の後付けではないのか、という批判は、当時の日本を甘く見すぎた考えです。この程度の認識を、当時の幕府や、雄藩の上層部がしていないわけはありません。もともと秘密でも何でもない情報から自然に導かれることですから。だからこそ、公武合体や、大政奉還という解決法が生まれたわけです。
薩長の策略を防いで、内乱を起こさずに国を再度まとめるための方策だったわけです。
ほどなく普仏戦争(1870―1871)が起こり、フランスが敗北したことにより、(フランス人には申し訳ないですが、惨敗といっていい敗戦でした)しばらくはフランスも大人しくせざるを得なくなり、残る脅威はイギリス一国のみです。
ここまでは分析ですが、ここからは禁断の、歴史におけるもしもの話であり、かつ、妄想になってしまいます。
薩長の野望を潰して、雄藩連合の政府が生まれていたとしても、西洋諸国の侵略をうけた可能性は低そうです。
侵略の脅威が低ければ、富国強兵政策をそれほど急ぐ必要はなかったわけです。
《実際の明治政府が、急進的な政策を進めたのは、根拠の少ない列強の脅威のためということもあったでしょうが、危機を煽ることで求心力を高める、政府の権威を高めるため、という目的もあったはずです。
何故、そんなことをしなければならなかったかというと、明治政府は正統性が 弱かったからです。
政権の根拠は、ついこの間まで蔑ろにしていた天皇の権威だけです。その正統性の弱さを補うために、過度に強権的になり、官僚的になったのでしょう》
雄藩連合がうまくいっていたならば、日本の近代化はもっと緩やかなものになっていたかもしれません。
それがうまくいったならば、江戸までの日本文化の長所はいまだに残されていたかもしれません。(我々はまだ、丁髷を結っていたのかもしれません)
過度な膨張政策もとらず、それでも台湾くらいは日本になっていたかもしれません。
日清戦争も日露戦争も日中戦争も太平洋戦争もやらなくて済んだかもしれません。(大陸に進出しないのですから、清とぶつかることはありません。同様に米英とも衝突しません。ロシアの脅威はロシア革命が起きれば、しばらくは考えなくてもよくなります)
勿論、これは妄想であり、物事のごく一面だけを見たものに 過ぎません。
ここで申したいことは、私たちが教えられてきた、明治政府としてはあれ以外にはやりようがなかった、という定説の誤謬です。
否定するわけではありませんし、もっとうまくやれた筈だと言いたいわけでもありません。
その道以外にはなかったのではなく、その道を選んだということです。おっちょこちょいで、思い込みの激しく、せっかちな私達らしい選択であって、それだけのことだったのです。
別の言い方をすると、司馬遼太郎史観一辺倒は、もういいだろうということです。