時事その他についての考察

歴史の話―熊本城とそこから考えたことなど―

加藤清正の熊本城は、薩摩への抑えのためにつくられた。維新で役目を終えたかにみえたが、西南戦争で西郷の進軍を阻み、目的を果たした。『熊本城にこだわらずに、迂回して北上すれば、呼応して反乱を起こすものもあったかもしれないし、勝機もあった』という人もいるが、熊本を落とさずして、他の地方の有力者がついてくる筈もない。

しかし、本人が自覚していたのかは知れず、西郷という人は、武士の息の根を止める、という彼にしか出来ない大仕事を最後に果たした。すなわち、日本国における内戦を終わらせる役割を果たした。

それは、ある意味では大久保利通との最後の共同作業だったともいえる。

西郷隆盛も大久保利通も、本人の意識では、志の途中だったかもしれません。しかし、その時その時に力を尽くした人は、たとえそれが道半ばであっても、何事かを達成していると言えます。

企てが失敗におわったとしても、それに対する意志は無駄ではないということです。

しかし、不思議ともいえることですが、非業ともいえる最期を迎えた人たちには、その人生における使命を全うしたとしか思えない人が多いです。

さきの西郷隆盛もそうです。大久保利通もその後暗殺されてしまいますが、それは明治の最初期を乗り切るという大仕事を務めあげ、なおかつ、伊藤博文という後継者を育て上げたうえのことでした。

坂本龍馬に至っては、(日本人の8割の反感を受けることを言いますが)明治まで生きていたら却って邪魔になっていたかもしれません。

よく言われることですが、新政府には加わらず、「世界を相手にした商売をする!」と息巻いていたことが本当だとすると、三菱を作った岩崎弥太郎の位置にいそうですが、そうなったとしたら、存在が大きすぎます。

新政府と癒着しないとも限りません。

《坂本龍馬ならば、そんなことは無いだろう、と考える人も多いことでしょう。しかし、前近代のしかも動乱の時に培われた倫理観や性格はそう変われるものではありません。坂本龍馬というは人は、一対一で決着をつけるのを好んだ人のように思います。明治になって社会がまた安定してきて、公私の区別や、組織上の手続きが重要視されるようになったときでも、若い頃とおんなじ解決法を好む可能性はかなり大きいと思います》

《勿論、もしもあの人があの時に亡くならなければ、世の中はいい方向に変わっていたろうに・ ・と思わされる人たちも多くいましたが。

原敬の暗殺が無ければ、日本に政党政治が根付いていたかもしれない、とか、5.15 事件や2.26事件がなければ、太平洋戦争は避けることが出来たかもしれない、とか》

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