時事その他についての考察

天皇の戦争責任

初めに、戦前に三度にわたって総理大臣を務めた、近衛文麿氏の手記からの引用をお読み頂きたい。日中戦争が始まってしばらくした頃、閣議において、戦争を終わらせることを求める首相以下に対して、統帥権の名のもとに、まともな返事すらしようとしない陸軍大臣の姿を描写したあとの記述です。

「そこで私は、この日のことをつぶさに上奏した。そして総理大臣が将来の計画を立てる上にぜひとも必要であると認められる件に限り、たとえ統帥事項であっても、あらかじめ内閣にお知らせを願えないものであろうかと謹んで伺った。

その時、陛下から、しばらく考えさせてくれとの、お答えを頂いた。総理の申出は、もっともである。しかし陸軍が、政党出身大臣の同席する閣議において、報告することは困ると申すことであるから、今後は陛下御自身、総理と外相のみに、必要の事柄を話すことにおきめになったのであった。

以後その通りになったが、しかし、これはただお伝えいただくというだけのことであって、その事項については、われわれから意見を申し述べるわけにはいかないのである。」

これは、外交官から政治家に転じた芦田均(1887―1959)氏の「第二次世界大戦外交史」(岩波文庫)からの引用です。

私もそうてすが、これまで多くの人たちは、天皇陛下の統帥権というのは、名目上のもので、軍事行動について、陛下はせいぜい事後報告程度のものしか受けておられなかっただろうと(なんとなく)考えていたのではないでしょうか。

しかし、これを読むと、統帥権を持つ者、すなわち、軍事における最高権力者というのは決して名目だけのものではなかったということがわかります。

陛下は慣例上、政治や軍事に口を出さない、ということはあったのでしょう。だけれども、満州における、張作霖爆殺の後処理に手間取った、田中義一総理を更迭したことから、実権があったことは明らかです。

戦後、敗戦処理にあたって、国体を守る、すなわち天皇制を守ることを第一義にした当時の政府首脳の判断は優れたものだったのでしょう。

それを認めたマッカーサーの洞察も見事なものだったのでしょう。

そうして、当時、それを正当化するために陛下の戦争への関与の具合を曖昧にした言論界もいい仕事をしたと思います。

しかし、昭和から元号が二度にわたって変わった今では、見ないことにしていたもの、無いことにいていたものを検証する時になっていると思います。

《昔の本というのは、その表面上の情報だけでは時間がたつと意味をなくするということがあります。しかし、その時代の空気をあらわす上では重要な資料であり続けるのです。初めに挙げた近衛文麿氏の手記は、原本ではもう少し長く引用されています。それを読むと、南京攻略やそれ以後の局面では、すなわち中国を相手にしている段階では、その後の展開がほとんどよめていないことがわかります。本当は、日中戦争に勝って、中国を支配下におくことに成功したとしても、いや、そうなったとしたらなおさら、アメリカなどと戦わざるを得なくなっていた筈なのですが》

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