正確な文言は忘れましたが、文意としては、今自分が受けている世間的な評価に自分が値すると思ったことはない、といったことでした。
堺雅人さんほどの俳優がそう思うとしたら、その理由は二つ考えられます。
一つは、自分は正統的な教育、修行をしておらず、いわば自己流で努力してきたので、どこかに重大な欠陥があるかもしれない、という思いを忘れていない場合。
もう一つは、見据えているのは、常に理想であり、他人の評価や低い基準での自己の満足ではない場合です。
理想の姿を当然、あるべきものだととらえれば、そこに到達することは出来ないのですから、完全に満足する、ということはありません。また、そうなれば、それを求めて常に努力し続けることにもなります。
太宰治の「正義と微笑」という小説に、役者になりたての主人公と、その世界で第一人者と言われる人が食事をする場面があります。青空文庫にあるでしょうから、引用してみます。
“十日ほど前、市川菊之助は、僕をレインボウへ連れて行って、ごちそうしてくれて、その時にボイルドポテトをフオクで追いまわしながら、ふいとこう言ったのだ。
「私は三十まで大根と言われていました。そうして、いまでも私は自分を大根だと思っています。」”
太宰治の「きりぎりす」という短編ではまったく別の思いを抱く成功した画家がでてきます。その画家がラジオで発言しているのを不遇時代を支えた妻が聞いている場面です。これも青空文庫から引用してみます。
“「私の、こんにち在るは」というお言葉を聞いて、私は、スイッチを切りました。一体、何になったお積りなのでしょう。恥じて下さい。「こんにち在るは」なんて恐しい無智な言葉は、二度と、ふたたび、おっしゃらないで下さい。”
こういう怖い描写を読んでしまうと、実際に「私が今あるのは」と誰かが言うのを見ると、今でも少しドキドキします。