昔、1970、80年代の学校教育では、何かと“話し合い”が強調されていました。(今、どうであるかは知りませんが)
しかし、話し合いというものが通用するのは、極めて限られた環境のなかだけです。それには条件が三つあります。それは、相手の話は取りあえず聞こう、という基本的な気構えを持っていること(教育でできるのはこれを植えつけることまで)、双方が互いの話を擦り合わせて、妥当な落としどころを見極めることができる判断力を持っていること、話し合う内容が決定的な重大さを持っていないこと、のすべてが当てはまった時だけです。(それ以外にも、力のある人が調停者になったときにも成立することがあります)
“話し合う内容が決定的な重大さを持っていない”ということは、いいかえればどうでもいいことだということです。
すなわち、話し合いなどで解決するのは、どうでもいいようなことだけです。
しかし、現実には国家のあいだ、もしくは各種共同体の間、または個人同士でも重大な、いいかえれば、大きな利害関係の絡んだ問題は生まれ続け、また、解決され続けています。
話し合いで解決できていないのならば、どうやって解決しているのかというと、交渉と恫喝です。この二つを完全に分けて考えることは難しいでしょう、いずれにせよ、物事は話し合いなどという牧歌的なもので決まるものではなく、力と力、知力と知力のぶつかり合いで決まるものです。
推測でものをいって申し訳ないのですが、欧米では日本ほど、話し合いを強調した教育はしていないのではないでしょうか。もっと現実に即した生き残りの手段を教えているように思います。
結局のところ、模倣者は本家に近づきたいがために、その本質を的外れにとらえるものです。
“エピゴーネンは本物よりも本物らしくなる” わたしは村松友視さんの本で知りましたが、おそらく、よく知られていることなのでしょう。
おそらく、わたしを含めて、日本人は、まだまだ民主主義とは一体何であるのか、ということはよくわかってはいないのでしょう。