時事その他についての考察

いわいる、“上から目線”の完全否定、過度な平等の絶対視は危険思想

わたしの場合は世界が狭いので、大体テレビやネットのなかでの話になってしまいますが、“上から目線”というものが、現在、忌み嫌われています。これは、少なくとも日本で進んでいる、世の中がどんどん優しく、優しくなっていることのあらわれの一つだと思います。

人 が優しくなるのはいいことなのでしょうし、これは何度もいっていることですが、平和が続くと社会の女性化が進む(同時に女性は男性化していくのは面白い現象です)ことの結果でもあるでしょう。

どんな現象でもそれが主義、主張の形をとると、行き過ぎてしまうようです。それが長年にわたって抑圧されているようなこととなると、特にそうなりがちです。

“上から目線”ということを嫌う風潮は、男性が 女性を、大人が子供をずっと抑えつけていたことの反動でしょう。その抑圧が長かったり、強かったりすればする程、反動は大きくなる道理です。

思い返せば、かなり昔から、年齢によって自動的に敬語をつかわなければならない、ということを嫌う風潮は出てきていました。そのことに対しては、やはり前に、敬語などというものは、社会にとってとても大切なことである、秩序を守ることの道具立ての一つでしかない、ということは述べておきました。

上下関係などというものは、便宜的なものでしかないのです。しかし、秩序が保たれるためには、それはあったほうがいい。それを、人間の内面の価値、などという、判定の難しいものにすると、ごちゃごちゃになるので、誰が見てもすぐにわかる、年齢の上下で決めただけのことです。

今、いわれている“上から目線”は、主に男性が女性に対してそうしている、という批判でしょう。敬語であれば、自分が年をとれば、使う側から使われる側に変わることができます。しかし、性別はそうはいきません。

確かに、常に偉ぶった態度をとることは不愉快かつ、間違ったことでしょう。

しかし、人にはそれぞれ、得手不得手があります。上から目線、というのも、場面場面でそれをする人がいれかわればいいことで、また、それが自然です。

今は誰かの失敗を咎めることでさえも、相手を傷つけず、不愉快な思いすらさせないでやらなければいけない風潮があります。

勿論、相手をおもいやった言動をとったり、立場が上の人であれば、ただ叱りつけるのではなく、指導することも大切なことです。

しかし、それが出来ない人を“上から目線をとる人”の一言でもって否定するのも、やはり、責められるべきことでしょう。

《大体、優しく注意されたものが、一度で欠点を改めることは余りありません。やはり、理不尽とも思える言われ方をして、悔しく思ったり、歯噛みするくらいに腹を立てさせられるくらいではないと、なかなか失敗を改めることは難しいものです。今の風潮では、注意する側がその意図がつたわるまで、何度でも根気よく、優しく言い続けなければならないようですが》

何故、そんなことが起きてしまうのか。何故、間違いを正すことがそれだけにはおさまらずに、また別の間違いを生んでしまうのか。

これは、私たちそれぞれが、自分で物事を考えているのではなく、世の風潮に流された考えを持ってしまっているからでしょう。

とりあえず、大勢の向いていることに従う。これは魚のイワシが群れるのと同じ、生物が生き残るための本能なのでしょう。

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