例えば、いわいる頭のいい人がいるとします。その人は洞察力に優れ、仕事をさせれば優秀なのかもしれません。
しかし、えてして、そういう人は、自分ができることが出来ない人にたいして見下した態度をとりがちです。自分に自信がある分、他人にたいする気遣いには欠けるかもしれません。そして、周りの人のことをただ、「何故、こんなことができないのか」と思っているのかもしれません。
さて、では、そう思われている側の人はどうでしょう。そういう、多少の能力を恃みに、生意気な態度をとっている人がいたら、周りを思いやることができない人、結果的には皆に疎まれて不遇な扱いを受けてしまう人、と思うかもしれません。優しい言葉をかけたり、朗らかにすることのできない、対人関係の能力の劣った人、と思っているかもしれません。「何故、そんなこともできないのか」と思っているかもしれません。
秀でた能力とは、劣った部分を補う、隠すためにそうなったのだ、といわれることがあります。盲目の人が音感に優れ、音楽家になった、とか、容姿に自信のない人が美しいものに憧れた結果一級のデザイナーになった、などです。
頭がいい、とか、洞察力に長けている、というのも、何かしら欠けているものを補うために発達したものかもしれません。もしかしたらそれは、対人関係を上手くこなす能力だったのかもしれません。
いずれにしろ、優れた能力とは、劣ったもののを補うためにあるものだとしたら、それをもって人を見下すようなことは、根本的に間違った考えだといえるでしょう。
ところで、結果的に両者は、給与その他のことで、同等の扱いを受けることになるのかもしれません。人は、他人をよくみているものですから。そうして、それは妥当なことなのかもしれません。評価というものは、総合的に判断されるべきものですから。