現在の日本では、寛容の大切さが広く説かれています。
勿論、それはとても大切なものです。しかし、今は忌み嫌われている、怒りの感情というものも、同じく、大事なものです。
怒りの感情というのは、自分や自分のいる共同体、それは家族であり、会社であり、国家であったりするわけですが、その利益が脅かされると感じられたときに発動するものでしょう。
これが無ければ、私たちは、自分の利益が脅かされても、何の抵抗もしないかもしれません。
それは生き物としての基本的な原理に反することです。そんなことをしていたら、その生き物は滅んでしまいます。
そのように、怒り、腹をたてる、というのは、私たちにとても必要なものです。
ではなぜ、いま、怒りが疎まれているのか。
それは、まずは、何にたいして怒っているのか、という問題になります。
怒りによって、その強烈なエネルギーを使って守ろうとするものは、まずは自分で、次に共同体なわけですが、自分のために、共同体のなかのものに怒りをぶつけては、それは当然のことながら、疎まれ、嫌われてしまいます。
怒りを表しながら、問題を起こさないのは、それが、共同体の外のものに対するときです。
陰口というのは、正にそれです。陰口とは、今いない人、すなわち、その時そこにある、とても小さな共同体以外のものに対してするものです。
マスコミも一般大衆の味方の振りをして、政治家や官僚または不祥事を起こしたものの悪口をいいます。または、日本を飛び越えて、中国や韓国などを悪しざまにいっても、少なくとも、大多数の日本人を挑発することにはなりません。それらは共同体のなかに入っていないからです。
しかし、現代の社会では、共同体も巨大かつ、複雑になっており、一緒に乗っている電車の乗客や道ですれ違うだけの人たちも、見方によっては共同体の一員です。
そういう人たちと問題をおこすと、共同体から疎まれ、しまいには相手にされなくなってしまいます。
ですから、現在の社会では、怒りの感情をコントロールすることが大切なのだ、と色々な人たちが訴えているわけです。
しかし、私たちは、本当は、自分たちを守るための大切なセンサーである、怒りの感情を忘れてはいけません。
これはわたしの話ですが、他人から何かをされたときに、訳もわからず強い怒りを覚えることがあります。その時は何故、自分がそんなに怒るのかわかっていないのですが、しばらく時間をおいて、その怒りの原因が、それは決して理不尽な怒りではなく、他者から攻撃されたことに対する、当然覚えるべき怒りだったのだ、と気づくことがあります。
つまり、理屈よりも怒りの感情のほうが性能がいいのです。
また、どういうタイプの人物が好まれるのか、というのは、その時代によって変わります。
今は穏やかな人が求められているのかもしれませんが、変革の時代には自分をはっきりと持って、喜びも悲しみも怒りも素直に表す人物が、それでもって、力のある人物が今より求められ、好まれるでしょう。
それがたとえ共同体の内部に対するものであっても、怒りを表さなければならない時や、怒らなければならない事はあるのです。
そういう時代が近々くるような気がしますし、もしかしたらもう来ているのかもしれません。