時事その他についての考察

他人の見解に反対する人たち

SNS で簡単に自分の意見を公開することができるので、色々な人の意見と、さらに、それに賛成したり、反対したりする意見まで見ることができます。

そういうものを見ると、もとの記事なり、ブログなりに賛成する意見のものはさておき、反対意見を書き込む人たちは、第三者の目からみると、見当外れのことをいっていることが多いようです。

さらに困ったところは、わざと悪意をもって揚げ足とりなどをしているわけではなく、反論している本人は本気であって、自分が元の記事をちゃんと読み、理解した上で反論しているわけではないことにも気がついていないようなのです。

幾つかそういう書き込みを読んで、わかったような気がしたのですが、そういうことを言う人たちは、自分の考えと違う見解に過剰に反応するだけなようです。

もともとの自分の考えと違うものには、それを詳しく検討することさえしないで、駄目な、間違った考えだと決めつけてしまう。そもそも、文章の一部分だけを読んでそれが気に入らないと、その文の真意を探る、とか、残りの文章も読んで検証することさえせずに、それを間違っている、と決めつけているようです。

これは、柔軟性に欠ける振舞い、ともいえますし、知性に欠ける言動、ということもできます。

とすると、知性と柔軟性はとても近いところにあるのではないでしょうか。

考えてみれば、柔軟性を持った人は新しい考え方を取り入れることができるので、たとえ少しずつであっても、自らの知性を磨き続け、その結果は、そのまま知性の向上につながるわけです。

つまりは、もともとの知能程度の問題よりも、向上することをやめてしまうと、知的能力は途端に衰えてしまう、ということでしょうか。

では、柔軟性に欠ける人は何故、そうなってしまうのでしょう。

突然、大きなことをいうようですが、それは人類の歴史の上では、先祖代々の慣れ親しんだやり方を変えないほうが生存確率が高かった、ということではないでしょうか。つい、この間、近代成立までは、ほとんどの人たちは先祖代々、やり方も、その見返りもはっきりわかっている方法で生活していました。勿論、目端のきく人は新しいやり方を考えついて、運と能力に恵まれていれば、成功することもあったでしょうが、それはなかなか難しいことであったでしょう。それに、そういった新しいことは、効果がはっきりと出てから取り入れてもいいわけです。

中途半端に余計な工夫をして、いろいろな、腰の定まらないことをするより、決まったことをやり続けたほうが生き残れる確率は高い。だからこそ、私たちは基本的に保守的なのです。

それはしかし、生活様式の問題であって、本来は何かに対する見解とは関係はないものです。しかし、そこでも、保守であらなければいけない、自らの考えを揺さぶられてはいけない、という本能にも見えるものが新しい考えを受け入れることを拒否するのでしょう。

そうして、本当は自分の考えが違っていることを知っているので、それを自分に隠すために過剰に反応してしまい、言動が極端になる、つまりは口調が断定的になるのではないでしょうか。

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