時事その他についての考察

理想のリーダー像としてのリンカーン

安倍晋三内閣総理大臣に対する文章のなかであるべきリーダー像について少し触れたので、その典型として、エイブラハム=リンカーンについて書いてみます。

リンカーンといえば一般的には奴隷解放が業績としてあげられますが、それは一旦、横に置いておいていただきたいのです。

エイブラハム=リンカーンの達成したことで一番、大切なのは、南北戦争を北軍の勝利のもとに終わらせたことです。それはつまりは、アメリカを分裂の危機から救ったということです。

南北戦争(1861年4月12日~1865年4月9日)は、リンカーンが大統領選挙に勝ったあと、実際に就任する前にはじまり、それが終わった六日後にリンカーンは暗殺されてしまいました。つまり、南北戦争の期間とリンカーンが大統領であった期間とは、ほとんど重なるのです。

アメリカ人だったら、リンカーンという人は、アメリカ合衆国史上、最大の危機を救うために天からつかわされ、その使命が終わったときに、天にまた戻ったのだろう、と考えることでしょう。

リーダーとしてのリンカーンは

・アメリカは分裂してはならない、という信念をもち

・そのためにはそれがどんなに困難なものであっても、戦争を北軍の勝利のもとに終わらさなければいけないことを内外にしめし

・果断なリーダーシップ のもとにそれを成し遂げたのです。

これを他の時代や国にも当てはまるように言い直すと

・なにを優先したらいいのか凡人には判断がつかない複雑な状況から一番、大事な、達成しなければならないことを正しく見極め

・その目標をはっきりと内外に示し、決意のほどを訴え

・どんなに実現が難しく、人々の心がばらばらになりそうなときにもこれを励まし、ついには実現される能力。これが特に非常時において重要となるリーダーとしての能力ではないでしょうか。

追記:南北戦争の苛烈さは、その戦死者が50万人とも60万人ともいわれ、その数字はアメリカの経験した他のどの戦争よりも多い、ということによくあらわれています。(二番目に多かったのが、第二次世界大戦での約40万人。但し、日本人としては、太平洋戦争での日本の犠牲者は300万人をこえることは書き添えないわけにはいきません。

他に太平洋地域で多く亡くなられたかたのおられた国は、中国1300万人、ベトナム200万人、フィリピン111万人、インドネシア400万人、インド150万人などでした)

当時はアメリカの政治、経済の中心は東海岸に集中していたのでしょう。南部諸州の首都とされたリッチモンドはワシントンDCとはかなり近くにあり、戦争の初期には首都の攻防が戦いの中心になりました。(その後、中西部まで戦いは広まっていきました。「風と共に去りぬ」ですね。読んだことはありませんが)ワシントンの政府や市民が避難する間際までいったこともあったと記憶しています。

大統領選挙においてリンカーンは四人の手強い敵と戦ったのですが、その後、その四人はリンカーンを補佐する重要な役職につきました。いかに非常時とはいえ、リンカーンの人心掌握の凄さが窺えます。

リンカーンは普段はとても楽しい人だったようです。(但し、時々、酷い鬱におそわれたようです)先程の人心掌握もあわせて、尾田栄一郎さんの創作したモンキー・D・ルフィに似ている気がします。

最後に奴隷解放宣言について触れないわけにはいかないかもしれません。奴隷解放宣言は1863年1月1日正式に宣言されました。

リンカーンは確かに奴隷制度には反対していたようですが、政治家らしく、現実的な判断を大切にする人であり、決して強硬な反対派というわけではなかったようです。

奴隷制度に対する反対論は確かにイギリスをはじめとした国際世論として盛り上がっていたのでしょうが、アメリカ合衆国におけるそれは、人道的な理由よりも、北部の工業地帯としては自由な労働力が必要である、という経済的な事情からの要求だったようです。大規模農業を営むうえで多くの奴隷が必要だった南部と対立した一つの理由です。もう一つの大きな理由は、イギリスの進んだ工業からまだ新興の自国工業を保護貿易で守りたい北部と、自由貿易で農産物をイギリスに売りたい南部の利害の対立がありました。

リンカーンが奴隷解放宣言に踏みきったのは、本来、利害の対立が原因であった戦争の理由を善悪の対立にもちこんで北部の士気をあげ、黒人兵も多くいた南軍を揺さぶり、同時に国際世論を味方につけることによって、経済的には南部支持であるはずのイギリスを味方につける、という戦略的な計算のもとでおこなわれたものである、というのは定説だと思います。

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