学術的といっては大袈裟ですが、自分の考えを印す類いの文章の語尾をどうするのかというのはなかなか悩ましい問題です。~だ。もしくは、~である。と言い切るべきなのか、~だと思います。と正確さを優先させるべきか。
欧米人たちは完全に検証されていないことでも言い切るきらいがあります。
(念頭にあるのは一般向けの教養書の類いです。ジャンルはさまざまですが例をあげると、ウィリアム・ハーディー・マクニール、ジャレド・ダイアモンド、マット・リドレー、フランス・ドゥ・ヴァールといった人たちの著作です)
確かに語尾が“思います”、“思います”の一辺倒では弱いです。自分の主張に自信がないような。本来であれば、言い切れないことは言い切るべきではないのでしょうが、人と人のつながるところには常に政治的な力学が入ってきます。それが正しいか正しくないか、ではなく、人に伝わるか、人を動かす説得力があるか、が重要になってきます。声の大きい人間、自信ありげな人間の主張が通りやすいのは、たとえそれが学術的な分野であっても同じことなのでしょう。(学術論文などではそんなことはないと信じたいですが、実際はどうなのでしょうか)
そうである以上、読み手がそのつもりで対処するべきなのでしょう。書き手の主張に根拠があるのかを常に探りながら読まなければいけません。まあ、結構あります、根拠のない主張をいいつのっている文章は。匿名で文を綴っている以上、個別の批判はしないことにしているので具体例は挙げませんが。
少し話は違いますが、インチキな文章の見分け方の例をあげます。
読み手を惹き付ける上で、謎を提示してそれを解決していく、というのは正当かつ、読み手を退屈させない、という面では親切ともいえる技といえますが、これを過剰にやっている文章は、まず、間違いなくあなたが求めている答えは得られない、ろくでもないものと思っていいはずです。過剰か、そうでないかの判断は、あなたが読んでいてなかなか答えが出てこないのにイライラするかどうかで決めていいです。そういうのは途中で読むのをやめるのが一番なのですが、どうしても知りたいことが示唆してあるときにはそうも出来ないでしょう。その時には、しかし、ろくな答えは出てこないだろう、と覚悟しながら読み進めないと、ダメージが大きくなるかもしれません。それから、出てきた答えの真実味も疑ってかかったほうが身のためでしょう。
さらに古典的な騙しの技ですが、やたらに大袈裟なことをいうものも同じく、まともなものではない可能性がかなり、高いでしょう。これは文章に限らず、広告などで昔からみられる手法ですが、いまだにこれが通用しているらしいことは驚きです。飲むだけで痩せる薬なんてあるわけがなく、皆、冷静なときにはそんなことはわかっているはずなのに、いつまでも騙されるとは私たちも成長しません。
しかしながら、より大切なのは、仮に騙されるようなことがあっても、必要以上に落ち込まないことです。身上を全部無くして、明日の暮らしにも困るようになってしまった、などということでしたら、わたしなどがどうこういえることはありませんが、回復できる範囲のことであれば、落ち込むことは自ら進んでより悪い道に入り込んでいくことです。これではもう一度騙されることと結果的には同じになってしまいます。あくまでも悪いのは騙す側で、騙される側が悪いのではないということを今一度考えて頂きたいです。
昔の仲間で、インド旅行を繰り返す人がいました。いわいる、インド病にかかっていた人です。わたしなどは海外の露店などで買い物をするときには、騙されてはいけない、とか、ぼられてはいけない、ということばかり考えてしまいそうです。そのインド病の彼は、インドは宝石で有名らしいのですが、わざわざ怪しげな店にいって、慎重に吟味して宝石を買うそうです。それを信頼できる店に持っていって、あらためて鑑定してもらうのだそうです。それで、いい買い物だったら勿論嬉しいし、騙されたことがわかってもそれは自分の目利きが未熟なためだし、それも勉強で楽しいのだそうです。(特に宝石のプロを志していたわけではありません。趣味みたいなものらしいです)これくらいの境地までいけば詐欺などは怖くないのでしょうね。
こういうのはミステリー小説を読んで、秀逸なトリックに感心することと似ているのでしょうか。東野圭吾さんなんかは綺麗に騙してくれますから。
《東野さんは小説はほとんど読んだことはないのですが(すみません)、映画版の「容疑者X の献身」のトリックや「マスカレード・ホテル」とドラマの「流星の絆」の真犯人は気持ちのいい騙されの典型でした。東野さんの偉いのは、トリックがフェアーなところです。おそらく、本格的なミステリーファンであれば後ろの二作の犯人なら見破れるのでしょうが、それも論理的に推理できる情報をきちんと提供しているフェアネスがあってこそです。だからこそ、それでもコロッと騙されることが悔しくもあるのですが》
文章の話をしていたのでした。語尾をどうするのか、は象徴的なことですが、それに限らず、文章を綴るということは、瞬間瞬間で選択をし続けるということです。これは、いい加減にやればいくらでもそうできることですが、本来は常に覚悟が必要なことです。まあ、人生というものは全て、そういうものかもしれませんが。
と、偉そうなことを言っていますが、知っていることとそれを実際にやっているかはまた、別の話です。