時事その他についての考察

ひきこもりと資本主義

ひきこもりが決して他人ごとではないのは、私たちの多くも出来ることなら仕事などしないで暮らしていきたいと思っているだろうことからも言えます。しかし本当は仕事は楽しいもののはずです。もう少し正確にいうと、楽しい部分が相当数あるはずです。(勉強と同じかもしれません)農業や酪農をやられている方々に聞いたらきっと、自分の仕事のことを大変だけど楽しいと表現されると思います。しかし、これに厳しいノルマがかかったらどうでしょう。達成に向けて前向きに頑張る方もおられるでしょうが、仕事が苦痛になる人も出てくるでしょう。かかるノルマが厳しくなれば苦痛になる人の割合は当然、増えてきます。今の資本主義社会はそのノルマ、もしくはそれに似たものが非人間的に課されているのではないのか、という仮定がこの文章の出発点です。

資本主義の限界について話をする以上、まずはそれが何かを考えなくてはいけません。資本主義といわれるものが生まれるずっと前から貿易は行われていました。貿易というのは自分達たちが使ったり食べたりするより多くのものを作ったりして、その余ったものを他者の持っている、他者にとって余っているものととりかえることです。それは資本主義も同じですが、わざわざ名前をつけたのは規模つまり数が桁違いだからでしょう。何故そんなに沢山つくるかというと、そうすれば一つあたりの値段は安くなるからです。それも格段に。何故わざわざ安く作らなければいけないかというと、そうしないと競争に勝てないからです。

資本主義のはじまりは産業革命にあって、それはイギリスの紡績(糸や布をつくる)工業から起こったことは教科書に載っていますが、何故彼らが糸を機械でつくろうとしたのかは余り語られません。これはインド産の安く、質のいい綿糸に勝つためだったそうです。

ヨーロッパ人がわざわざアジアまで来たのは胡椒などが欲しかったからでしょうが、インドに来てみたら安くて質もいい綿糸があったのですね。そこは商売ですから、これは国に買って帰ればいい儲けになるだろう、というわけで取引が始まったのでしょう。貿易商は儲かったでしょうが、イギリス本国の紡績産業の人たちは大変です。いきなりの収入激減です。国が関税などをどうしたかは知りませんが、関税をかけても追いつかない位に質、値段に差があったのか、貿易商の圧力で関税がかけられなかったのか(東インド会社がもう出来ていたのか)とにかく、事態は深刻だったわけです。

後に産業革命につながる機械化はその状況からの起死回生の技として編み出されたというわけです。

ここに資本主義の根本にある問題があると思うのですが、競争に勝つために安くつくるためには大量に作らなければいけません。極端なことをいうと、作っているときにはどこに売るかはあまり考えられていないわけです。作っちゃったのものは売らなければいけないので、売るところが必要です。その作るのと、売るための場所の開拓がひと纏めになっているのがすなわち、資本主義といわれるものなのでしょう。これが武力と手を組んで、市場獲得のために戦争などをおこすのを辞さないものが、すなわち、帝国主義といわれるものなのでしょう。

資本主義が無理目の制度であることは明らかだと思いますが、では何故それがここまで発展し、また続くことができたのか。これはまずは前述の様に競争に強いからです。今まであった制度の中で、これに勝てるものはありませんでした。資本主義登場以前からあった制度は勿論、ムッソリーニやナチスの国家社会主義、さらにはマルクス=レーニン主義がこれに挑戦してはねかえされました。これは資本主義が人間のやる気や潜在能力を引き出すことに長けているからでしょう。(但し、それは同時に人々にプレッシャーを余計にかけていることでもあります)次にはその誕生からしばらくの間は新しい市場が次々、あらわれたからです。(そもそもそうでなければ資本主義は発展しなかった、というのが本当でますが、例えば、世界にヨーロッパしかなければ発展しようはずもありません)

いわいる大航海時代に開拓したアジアに至る航路は資本主義とは直接の関係はありませんでしたが、産業革命以降に非常に大きな意味を持つことになりました。すなわち、買い付けのためにいっていた所が実は物を売ることのできる市場でもあることに気づき、また、そこに行く道を作ってもいたわけです。別にアメリカ大陸という、巨大市場も成長しつつありましたので、資本主義は順調に成長していきました。

しかし、地球の広さには限界がありますので、新しい市場を開拓する方法論をずっと続けるわけにはいきません。私たちはそんな簡単なことに気が付くのに二回も大戦争をしなければいけませんでした。

地球が突然、大きくなったわけでもないのに戦後、資本主義がその後も発展することができたのは人口の増加と技術革新があったからです。(本来ならここでデータを出すべきところですが前述の通りそれはありません。技術革新を数字で表すのは難しいところですが、そうですね、特許の数は目安になるかもしれません)私見ですが、(そんなことを言ったら全部が私見ですが)武力で市場を広げるやり方は不毛なこととわかったので、持っている資源、能力を技術革新に向かわせたのではないでしょうか。

《いわずもがなでしょうが、技術革新が重要なのはそれが新しい市場を生むからです。新しく国を占領しなくても、すでにもっている領土の人工が増えなくても新しい、皆が買いたがるそして実際に買うものをつくることができれば、それは新しい領土を獲得したのと同じことです》

しかし資本主義には大きな欠点が二つあると思います。一つは先程述べました人々に過度のプレッシャーをかけることで、もう一つは今、世界中で議論されているところです。言うまでもないことでしょうがそれは格差を広げる制度だということです。

あらためて申しますが、格差が社会的に害なのは必ずしも貧困層が気の毒だといった人道上のことではなく、格差が広がると社会が不安定になるのです。そうなると治安が悪くなり、それを維持するのに必要な、例えば警察官を増やさなければならないなど、社会秩序を保つのに必要な経費が増えます。また貧乏人はお金を余り使えないので、金持ち層もそこから吸い上げる利益が少なくなります。

つまり、格差は貧困層だけではなく、金持ちにもいいことではないのです。

誰も得しないとであれば、世界は格差の解消に向かいそうなものですが、なかなか理屈通りにはいかないようです。

ところで、冷戦が終わるまでは少なくとも西側の世界は比較的格差のない、まずまずの社会だったのではないでしょうか。それでも勿論というべきか、皆、不満は持っていたのですが。その不満というよりも不安の中でも最も大きなものはその冷戦構造そのもの、もっというとソ連の脅威でした。これさえなければ、古典的な表現をさせてもらうと、枕を高くして眠れるのだが、と思われていた人も多かったでしょう。なにしろ、核戦争の脅威が現実的だったのですから。

ところが、西側世界で格差の少ない、社会民主主義勢力がある程度の力を持てている社会が当たり前のこととしてあったのはソ連を筆頭とする東側の脅威があったからなのでした。わかってみれば当たり前のことですが、当時はごく少数の人しか気付いていませんでした。その人たちの中には見解を発表していた人もいたはずですが、私たちはそれも無視していたのでしょう。まあ、我々の知性などというものはその程度のものです。

勿論、冷戦崩壊だけが格差社会を導いた原因ではありません。ひとつ言えば物を売って儲けるためにはその物を作らなければいけませんが、情報はひとつそれを持てばそれを欲しがる人たちに売りつくすまで新しい情報を手に入れる必要はありません。利益率が膨大なものになるわけです。そうしてそれは必ずしも従業員に分けなければいけないものではありません。相場の給金を払っていればいいのですから。

それが現在です。しかし不思議ではありませんか。民主主義は数の多いほうが強いはずです。数でいえば貧乏人のほうが金持ちよりずっと多いのです。とっとと累進課税を強化するなり、格差を解消する政策が実施されても全くおかしくはないはずです。しかしそうはなっていません。何故か。あまり自信のない答えなのですが、今の社会は日本に限らず、それぞれ外国に対抗するにはそれぞれの国のトップ企業に頑張ってもらわなければいけない、格差解消などにエネルギーを使う余裕はない社会なのかもしれません。格差が解消しても国全体が貧乏に沈んでしまったら一億総貧乏ということですから。(アメリカだと四億総貧乏ですね)私たちはそれをどこかで感じているから現状に耐えているのかもしれません。日本の場合でいうと、野党がだらしない、といった問題ではないことは確かだと思います。人々が本当に必要だと、そうならなければならないと思ってそこにエネルギーが注ぎこまれているのなら、とっくに野党は結束しているはずです。健気ではありませんか、大衆というものは。今はその時期ではない、と思って耐えているかのようです。金持ちなどは貧乏人がどうなろうと関係ないと思っているのに。

とにかく変化が激しいので、それにあった制度をつくるのは大変です。よく、政治に対する批判で“後手後手にまわっている”というのがありますが、政治というものは基本的に後付けのものなので、後手にまわるのはいわば当たり前です。

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